降伏と戦後処理
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2017/11/27 01:23 UTC 版)
「ミュティレネの反乱」の記事における「降伏と戦後処理」の解説
反乱勃発の翌年紀元前427年の夏、スパルタはアルキダス率いる40隻の艦隊をミュティレネへと送り、それと同時並行でアッティカ侵攻を行ってアッティカを荒らしまわった。しかしこの時すでにミュティレネ人は援軍の遅延、食糧不足のためにサライトスの反対虚しくアテナイの将軍パケスとの交渉の席に着いており、ついにアテナイ本国からの決定が下されるまで責任者などの処罰は行わないという条件で降伏した。アルキダスはミュコノス島でミュティレネ陥落の事実を知り、真実を確かめるために艦隊をエンバトンまで進ませたものの、ミュティレネ襲撃やイオニアの諸都市の攻撃といった案を容れることなくそこで撤退を決めた。それを知ったパケスはアテナイ艦隊を出撃させたが、アルキダスは追撃を振り切ることに成功した。 パケスは帰路立ち寄ったノティオンでアルカディアの傭兵に支えられていた親ペルシア派政府を倒してその他のコロポン人に引き渡した後、ミュティレネに戻った。ここでさらにピュラとエレソスから服従の誓いを得、反乱の首謀者のミュティレネ人とサライトス、そして軍の大部分をアテナイに送った。 サライトスは即刻処刑されたが、その他の者の処遇は議論された。アテナイの民会は最初ミュティレネの男子全員を処刑し、女子供は奴隷に売ることを決議してパケスの許にその決議を知らせる三段櫂船を送った。しかし、その翌日、アテナイ人はこの決議の苛烈さを後悔して再び議論した。前日の決議を提案したクレオンの演説に対し、より寛大な処置――責任者のみの処刑――を主張するディオドトスが反論演説を行い、僅差ではあるがディオドトスの主張が受け入れられた。そこでアテナイ人は急いで前日の処置の取り消しを知らせる三段櫂船を急行させ、昼夜を問わず急いだその三段櫂船はすんでのところで間に合った。 そしてパケスが送った1000人強の首謀者はクレオンの決議に従って処刑され、ミュティレネの城壁は壊され、艦船とメテュムナ領を除くレスボスの土地、大陸の領地は没収され、アテナイの植民者に分配された。この反乱こそ失敗したものの、後にレスボス人は紀元前415年のアテナイのシケリア遠征での惨敗を受けてアテナイに再び反旗を翻することになる。
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