降伏と引退、死
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/07/18 00:24 UTC 版)
754年、カールマンとピピン3世は再度アクィタニアに侵攻した。前メッツ編年記によると、ウナール1世はカロリング軍には敵いようがないと悟り、兄弟のあらゆる意向に従うことを誓うとともに、人質と貢納金を送った。屈辱を負ったウナール1世は冠を脱いでアクィタニア公を捨て、レ島の修道院に引退した。彼の息子ワイファリが後を継いだ。 752年ごろ、ウナール1世はローマに赴き、郊外のサン・ピエトロ大聖堂に隣接する修道院に入った。756年、ランゴバルド王アイストゥルフがローマを攻撃した際、無防備だったローマ近郊も襲われ、ウナール1世はここで戦死した。経験豊富な指揮官だったウナール1世は大聖堂の守備兵を率いたが、敵の投石にあたり死んだとされる。 ウナール1世は、12世紀のフランスの武勲詩に登場するユオン・ド・ボルドーのモデルだと考えられている。
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