降伏と晩年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/23 06:03 UTC 版)
「ムハンマド・ダウド・シャー」の記事における「降伏と晩年」の解説
1897年、摂政退任後もアチェ宮廷を取り仕切っていたハーシムが死去し、1899年にはウマールが戦死した。ウマールを討ち取ったヨハネス・ファン・ヘウツ(英語版)はピディを攻撃し、多くのアチェ軍指導者が降伏した。1901年、オランダ軍との戦闘に敗北したムハンマド・ダウド・シャーとパンリマ・ポレム9世はガヨ(英語版)山地に撤退した。ヘウツは、ゴトフリート・ファン・ダーレン(英語版)大佐のオランダ植民地軍保安隊(英語版)に追撃を命じたものの、捕縛に失敗している。 1902年に后ガディンが捕縛され、1か月後には第二王妃ムロンと息子が捕縛された。オランダ軍はムハンマド・ダウド・シャーに対し、「1か月以内に降伏しなければ家族を処刑する」と通告した。ヘウツから身の安全を保証する言質を得たムハンマド・ダウド・シャーは、家臣たちに抵抗を続けるように命令した後、1903年1月10日にオランダ軍に降伏し、コタラジャに連行された。ヘウツは降伏文書調印式にウィルヘルミナ女王の等身大の写真を配置し、その前でムハンマド・ダウド・シャーからの降伏文書を受け取った。同年9月にはパンリマ・ポレム9世も降伏してアチェ戦争は終結したが、その後もチュ・ニャ・ディンやチュ・ニャ・ムティアなどによるゲリラ闘争は1910年まで継続した。 降伏したムハンマド・ダウド・シャーに対し、オランダ政府は広大な屋敷と毎月1万2,000ギルダーの年金を与えた。しかし、1907年にオランダ政府への攻撃計画に加担したことが発覚してジャワ島に追放となり、後にアンボン島に移された。1918年にバタヴィアに居住することを許され、1939年2月6日に同地で死去し、遺体はラワマグンに埋葬された。息子トゥアンク・パジャ・イブラヒムは1982年に死去している。
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