降伏と協議の軍隊
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/10/01 18:43 UTC 版)
「サラトガ方面作戦」の記事における「降伏と協議の軍隊」の解説
サイモン・フレーザーはその受けた傷が故で翌日早くに死んだが、埋葬されたのは日没近くなってからだった。バーゴイン軍の塹壕線は大陸軍によって執拗な嫌がらせに曝されていたので、バーゴインは撤退を命令した(ある小競り合いの結果としてリンカーン将軍が負傷した。ゲイツはアーノルドの負傷に続いて2人の上級野戦指揮官を奪われることになった)。バーゴイン軍がサラトガに到着するまでに2日近く掛かった。激しい雨と、大陸軍の探りを入れる攻撃のために歩みを鈍くされた。バーゴインは大陸軍の宿営地における兵站の問題に救われた。大陸軍は物資を前に進め食料を発給するのが遅れて、軍の前進する力を奪われていた。しかし、ゲイツは分遣隊をハドソン川の東岸に派遣して如何なる渡河の試みにも対抗するよう命じた。10月13日朝までにバーゴイン軍は完全に包囲され、作戦会議を開いて交渉を開始することを票決で決めた。降伏条件は10月16日に合意に達したが、バーゴインは降伏よりもむしろ「協議」と呼ぶことを主張した。10月17日、バーゴインがゲイツにその刀を渡し、直ぐにそれを返してもらうという儀式に続いて、バーゴイン軍(6,000名になろうとしていた)はその武器を渡すために行進し、大陸軍の音楽隊は「ヤンキードゥードゥル」を演奏した。
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