降伏とその後
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/05 18:29 UTC 版)
「ビックスバーグの包囲戦」の記事における「降伏とその後」の解説
7月3日、ペンバートンは、ドネルソン砦の戦いの時のようにまず無条件降伏を要求したグラントにメモを送った。しかしグラントは考え直して、北軍の捕虜キャンプで3万人の飢えた南軍を養いたいとは思わず、全ての捕虜の釈放を提案した。南軍の弱りきった状態、意気消沈し飢えていることを考えると彼らが再び戦おうとするとは想定できなかった。グラントは彼らが南軍の他の地域に敗北の烙印を抱えて帰るものと期待した。いずれにしても、それだけ大勢の軍勢を北へ送るとすれば、それに北軍は捉われっぱなしになり、何ヶ月も掛かったことであろう。 降伏はある古いオークの木のそばで正式なものとなり、「その出来事で歴史になった」。グラントの「個人的自叙伝」で、彼はこの不運な木の運命を次のように語っている 木の断片が記念品として持ち去られ、その幹、根、枝の最後の痕跡が消え去るまではあっという間だった。それ以来、同じ木が、聖十字架と同じくらいに幾束もの薪を記念品として提供している。 降伏は7月4日の独立記念日に最終的な形になり、その日であればペンバートンはアメリカ合衆国からより同情的な条件を持ってくると期待した。ビックスバーグ方面作戦はまだ幾つか小さな戦闘が続いたが、この要塞都市が陥落し、続いてポートハドソンが7月9日に陥落するとミシシッピ川は北軍がしっかりと掴むことになり、南軍は2つに分割された。リンカーン大統領は「水路の父は怒らずに海に流れる」という有名な宣言を行った。 ビックスバーグの戦闘と包囲戦による北軍の損失は4,835名となり、南軍は32,967名(29,495名は降伏)となった。3月29日からの方面作戦全体では、北軍が10,142名、南軍は9,091名が戦死および負傷となった。ペンバートンはその降伏した兵士に加え、グラントに172門の大砲と5万挺のライフル銃を渡した。
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