連合軍との事前交渉
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/06 17:52 UTC 版)
「イタリアの降伏」の記事における「連合軍との事前交渉」の解説
バドリオ政権は表面上戦争を遂行するという姿勢を見せていた。総統大本営に到着したロンメル元帥も、早期のドイツ軍進駐はかえって反感を呼ぶとして、ヒトラーの強攻策に反対した。さしあたってのヒトラーの対応は北部イタリアとローマへの進駐準備と、ムッソリーニ救出のための準備を命令することであった。しかしこの政変は連合国軍にとっても寝耳に水であり、事前の話し合いは一切ついていなかった。7月27日のウィンストン・チャーチルの演説もそれをうかがわせるものであった。その後ヒトラーは各方面からイタリアが連合国和平に動いているという情報を察知し、8月1日にはイタリア占領作戦アッシェ作戦(英語版)を承認した。 バドリオ政府はバチカンの大使館を通じてイギリス側と接触し、ローマの「無防備都市宣言」案を連合国側に伝達した。8月4日には密使がリスボンのイギリス大使館に派遣され、和平の方針を伝達した。8月12日、参謀次長ジュゼッペ・カステッラーノ(英語版)大将が連合国の外交官と接触するために、マドリードに送られた。カステッラーノ大将らは8月16日にリスボンに到着し、8月19日になって連合国軍と会談の場を持つことができた。連合国側の出席者の中には、ポルトガルに送られた英国大使ロナルド・ヒュー・キャンベル(英語版)と軍人のケネス・ストロング(英語版)、アメリカからは連合軍最高司令官アイゼンハワーに送られた2人の将軍とウォルター・ベデル・スミス連合軍参謀長、さらにアメリカ大使館参事官のジョージ・ケナンがおり、彼らはその後も対イタリア交渉の窓口となった。この会談でイタリア側に、イタリア軍の降伏とその後の軍政を条件とし、さらに8月30日を回答期限とする停戦案が伝えられた。ところが連合国との接触に手間取ったカステッラーノにしびれを切らした本国側は、ジャコモ・ザヌッシ(イタリア語版)将軍をさらなる密使として派遣し、ザヌッシ将軍は8月25日にリスボンに到着した。8月27日、ザヌッシ将軍は英米政府がケベック会談で合意したイタリアの降伏案をキャンベル大使に提示された。しかしこの降伏案提示はキャンベル大使の独走であり、あわてた連合軍側はザヌッシ将軍をアルジェに向かわせ、帰国を遅らせることで対応した。この日、カステッラーノがローマに帰着し、停戦案を内閣と軍に示した。政府は王政の保障を得ることや降伏を回避することへの望みを捨てておらず、またドイツ軍の報復をおそれたため、回答期限まで決定を下すことはできなかった。結局、回答期限の8月30日にカステッラーノを連合国軍の占領したシチリア島に向かわせることのみが決定された。 当初、連合国はイタリアの降伏の提案には完全に満足していたわけではなかった。枢軸国軍に対する軍事作戦は勢いを増し、イタリアの占領と敗北は時間の問題と考えていた。ドイツの弱小な同盟国の降伏は戦争の終結を確かに加速するだろうが、イタリア領域の完全な占領は、利益を失う点も存在した。 だが、結局は、イタリアでの戦争終結後に、可能であった選択肢の更なる検討が、連合国においてこの問題の大きな議論を引き起こした。特に、アメリカ合衆国は、戦争後にイギリスへのイタリアの接近の可能性を減らしたいと考えていた。これは、地中海におけるイギリスへの絶対的な戦略的支配権(これは、原油の輸送ルートの支配も含む)を与えるためであった。
※この「連合軍との事前交渉」の解説は、「イタリアの降伏」の解説の一部です。
「連合軍との事前交渉」を含む「イタリアの降伏」の記事については、「イタリアの降伏」の概要を参照ください。
- 連合軍との事前交渉のページへのリンク