連合軍によるフィリピン奪回
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/11 04:30 UTC 版)
「フィリピンの歴史」の記事における「連合軍によるフィリピン奪回」の解説
1944年10月20日にアメリカ軍がレイテ島に上陸し、続くレイテ沖海戦でも日本軍を破った。 1945年1月にはマニラ大虐殺が発生。1945年2月3日からはマニラ市街戦が開始され、3月3日に、米軍はマニラを制圧する。さらにルソン島北部に敗走する日本軍を追いつめ、9月3日に日本軍は降伏した。この過程で、多くのフィリピン市民が巻き込まれて犠牲になった。日本軍と共に戦ったマカピリは戦闘によって壊滅した。第二次世界大戦によるフィリピン人の犠牲者は110万人に達した。 戦時中のレイテ作戦でアメリカ軍と共にフィリピン帰還を果たしたフィリピン・コモンウェルスのセルヒオ・オスメニャ大統領に権力が戻り、米自治領政府(コモンウェルス)が復活した。また、抗日運動で活躍したフクバラハップは、マニラ奪回後には共産党勢力を警戒したダグラス・マッカーサーの意図によって武装解除を余儀なくされた。第二次世界大戦後も徹底的な迫害が続けられ、親米政権が維持されることになった。
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