連合軍による解放とトランシルヴァニア併合
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/07 07:28 UTC 版)
「ルーマニア戦線」の記事における「連合軍による解放とトランシルヴァニア併合」の解説
詳細は「大ルーマニア」および「トリアノン条約」を参照 大戦末期の1918年11月10日、同盟国の形勢不利が明らかとなる中で行われたテッサロニキでの攻勢はブルガリアを降伏に追い込み、バルカン戦線でも連合国が主導権を握る結果を生み出した。ここでルーマニアは同盟国に反旗を翻して、連合国の支援により独立を回復した。11月28日にルーマニア王国は敗戦したオーストリア=ハンガリー帝国のトランシルヴァニア地方で住民投票を行い、同地を独断で自国に併合した。 オーストリア=ハンガリーはこれに反発したが、ルーマニアは「戦勝国」の立場を背景にヴェルサイユ講和条約でトランシルヴァニア併合を認めさせる事に成功した。同盟国ドイツもブカレスト講和条約の全面破棄を認める第259条の存在によって、これを追認するしかなかった。その後、オーストリア=ハンガリーは崩壊へと向かうが、後続国家のひとつであるハンガリー評議会共和国はルーマニアの横柄な行動に強く抗議し、トランシルヴァニア住民の34%を占めるハンガリー人の奪還を論じた。だが共産政権である同国の存在は国際社会の同意を得られず、四面楚歌の状態で1919年に周辺国の連合部隊によって強制的に崩壊へと導かれた。 ルーマニアもこの流れを後押ししてトランシルヴァニア奪回の試みを遠ざけようとした。
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