連合国の支援とは? わかりやすく解説

連合国の支援

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/04 18:48 UTC 版)

パルチザン (ユーゴスラビア)」の記事における「連合国の支援」の解説

テヘラン会談」も参照 連合国当初ドラジャ・ミハイロヴィッチチェトニク支援していたが、後期にはパルティザン形式的な支持や、一部物資支援を受けるようになった1942年には物資支援限定的ではあったものの、チェトニク並んでパルティザンは連合国の支援対象となった第5次パルチザン攻勢の頃、イギリス情報機関による報告では、パルティザンドイツ軍に対して勇敢によく戦っていること、多く負傷者出ていること、支援が必要であることが述べられ、またドイツ国防軍第1山岳師団1st Mountain Division)がチェトニク支配下領域通行して(独ソ戦戦場である)ロシアから移動してきていることが述べられている。また、ドイツ軍通信傍受した結果から、チェトニクドイツ攻撃できない臆病者であると確信したとしている。この報告連合国によるユーゴスラヴィア支援の方針転換させるものとなった1943年9月英国首相ウィンストン・チャーチル指示により、パルティザン接触を図るために、イギリス軍准将サー・フィッツロイ・マクリーン(Sir Fitzroy MacLean)がドルヴァル近く司令部構えティトー元にパラシュート降下した。この頃チェトニク依然、連合国の支援を受けていたが、これ以降パルティザンもまた連合国の支援を受けられるようになったテヘラン会談以降パルティザンは公式にユーゴスラヴィアにおける解放軍として認められイギリス空軍パルティザンへの物資支援および戦術的な航空支援目的としてバルカン空軍Balkan Air Force)を設立した1943年11月24日米国大統領フランクリン・ルーズベルト連合参謀本部会談で、チャーチルは以下の点に言及した .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}22万2千人数えティトー勢力に対してこれまで海路でほとんど何の補給品送られなかったのは遺憾である(…)英米軍がローマ南方イタリアで拘束しているのと同じ数のドイツ兵を、これらの勇敢な兵士たちユーゴスラヴィア拘束している。イタリアの降伏によってドイツ軍混乱に陥り、ユーゴスラヴィア愛国者たちは沿岸部広大な領土確保した。しかし、われわれはこの好機を捕えなかった。ドイツ軍態勢立て直し次第パルティザン追い詰めつつある。その主因は、バルカン半島人工的に分割した[西側連合軍ソ連軍の]責任区域にある(…)われわれが何もしなくてもパルティザンこれだけ大きな成果もたらしてくれたことを考慮すれば、彼らの抵抗運動維持され動揺しないようにすることには非常に重要である。 —ウィンストン・チャーチル1943年11月24日

※この「連合国の支援」の解説は、「パルチザン (ユーゴスラビア)」の解説の一部です。
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