連合国の支援
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「パルチザン (ユーゴスラビア)」の記事における「連合国の支援」の解説
「テヘラン会談」も参照 連合国は当初、ドラジャ・ミハイロヴィッチのチェトニクを支援していたが、後期にはパルティザンが形式的な支持や、一部の物資支援を受けるようになった。1942年には物資支援は限定的ではあったものの、チェトニクと並んでパルティザンは連合国の支援対象となった。 第5次反パルチザン攻勢の頃、イギリスの情報機関による報告では、パルティザンがドイツ軍に対して勇敢によく戦っていること、多くの負傷者が出ていること、支援が必要であることが述べられ、またドイツ国防軍第1山岳師団(1st Mountain Division)がチェトニク支配下の領域を通行して(独ソ戦の戦場である)ロシアから移動してきていることが述べられている。また、ドイツ軍の通信を傍受した結果から、チェトニクがドイツに攻撃できない臆病者であると確信したとしている。この報告は連合国によるユーゴスラヴィア支援の方針を転換させるものとなった。1943年9月、英国首相ウィンストン・チャーチルの指示により、パルティザンと接触を図るために、イギリス軍准将サー・フィッツロイ・マクリーン(Sir Fitzroy MacLean)がドルヴァル川近くに司令部を構えるティトーの元にパラシュート降下した。この頃、チェトニクは依然、連合国の支援を受けていたが、これ以降パルティザンもまた連合国の支援を受けられるようになった。 テヘラン会談以降、パルティザンは公式にユーゴスラヴィアにおける解放軍として認められ、イギリス空軍はパルティザンへの物資支援および戦術的な航空支援を目的としてバルカン空軍(Balkan Air Force)を設立した。1943年11月24日の米国大統領フランクリン・ルーズベルトと連合参謀本部の会談で、チャーチルは以下の点に言及した .mw-parser-output .templatequote{overflow:hidden;margin:1em 0;padding:0 40px}.mw-parser-output .templatequote .templatequotecite{line-height:1.5em;text-align:left;padding-left:1.6em;margin-top:0}22万2千人を数えるティトーの勢力に対してこれまで海路でほとんど何の補給品も送られなかったのは遺憾である(…)英米軍がローマ南方のイタリアで拘束しているのと同じ数のドイツ兵を、これらの勇敢な兵士たちはユーゴスラヴィアで拘束している。イタリアの降伏によってドイツ軍は混乱に陥り、ユーゴスラヴィアの愛国者たちは沿岸部の広大な領土を確保した。しかし、われわれはこの好機を捕えなかった。ドイツ軍は態勢を立て直し、次第にパルティザンを追い詰めつつある。その主因は、バルカン半島を人工的に分割した[西側連合軍とソ連軍の]責任区域にある(…)われわれが何もしなくてもパルティザンがこれだけ大きな成果をもたらしてくれたことを考慮すれば、彼らの抵抗運動が維持され動揺しないようにすることには非常に重要である。 —ウィンストン・チャーチル、1943年11月24日
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