パルティザンの大攻勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/29 15:11 UTC 版)
「ユーゴスラビア人民解放戦争」の記事における「パルティザンの大攻勢」の解説
ドイツ軍は比較的順調に退却を続けた。バルカン半島から撤退するもっとも簡単なルートであるセルビアを通る経路が絶たれたため、より困難の大きいコソボ、サンジャク、ボスニアを通る経路を維持するために、その撤退先となるスレム地方に戦線を張り防戦にあたった。ドイツ軍はユーゴスラビア人民解放軍(パルティザン)に対して一時的には戦果をあげてこの地を守った。ヘルツェゴヴィナ地方のモスタルからは1945年2月22日に撤退した。サラエヴォには4月15日まで留まった。サラエヴォは、バルカン半島から撤退する経路の要となる場所にあり、その維持は戦略上、致命的に重要なことであった。3月初頭、ドイツ軍はボスニア南部の戦力を引き抜き、ハンガリーでの反攻に差し向けるがこの試みは失敗に終わり、更にユーゴスラビア人民解放軍はドイツ軍の弱った箇所を攻撃し戦果を上げることとなった。 ユーゴスラビア人民解放軍は連合国の支援強化を受け、また背後の安全は既に確保されていたものの、元がゲリラ戦術をとるパルティザンであった彼らには、特にベオグラードに広がるスレム地方の平地での通常戦闘には困難が伴った。十分な訓練も受けずに寄せ集められたパルティザン兵士であった彼らは、スレム戦線で苛烈な戦いに多くの犠牲を払ったが、ドイツ軍は4月中旬までこの地を維持した。 1945年3月20日、パルティザン(ユーゴスラビア人民解放軍)はモルタル-ヴィシェグラード-ドリナ川地域で大規模攻勢を実施した。ボスニア、クロアチアおよびスロベニアの山野部分の多くは既にパルティザンの統制下となっており、この大攻勢ではそれらの地域をつなぎ、主要都市や交通路を確保することが目的であった。大攻勢の前夜には、元帥ヨシップ・ブロズ・ティトーの元には総員80万人の兵力があり、4つの軍が組織されていた。第1軍はペコ・ダプチェヴィッチ、第2軍はコチャ・ポポヴィッチ(英語版)、第3軍はコスタ・ナジ(英語版)、第4軍はペタル・ドラプシンが司令官を務めた。加えて、人民解放軍は8個の独立軍団も備えていた。 パルティザンの大攻勢への対応にあたったのはドイツ国防軍・E軍集団のアレクサンダー・レーア将軍であった。この軍集団には7つの軍団が属し、17の師団に分かれていた。この7個の軍団の他に、アメリカおよびイギリスの海軍・空軍の攻撃に晒され続ける海軍および空軍も残されていた。 クロアチア独立国軍は1944年11月にウスタシャ民兵とクロアチア郷土防衛隊とを統合して再編され、13個の歩兵師団、2個山岳師団、2個急襲師団、1個予備師団の計18個師団が組成され、それぞれの師団には固有の砲兵部隊やその他の支援部隊が付属された。また、複数個の装甲部隊も存在した。1945年初頭より、クロアチアの師団は各地のドイツ軍と行動を共にし、1945年3月まで南部戦線を維持した。後方を維持するのは3万2千人前後から成るクロアチア憲兵隊(Hrvatsko Oruznistvo)であり、憲兵隊は迫撃砲などを備えた軽武装の5個の警察義勇連隊と15個の独立大隊から成る。 クロアチア独立国空軍(英語版)(Zrakoplovstvo Nezavisne Države Hrvatske, ZNDH)、クロアチア空挺部隊(英語版)は独ソ戦から戻され、1945年5月まで攻撃や戦闘、輸送といった航空支援を続け、イギリス空軍、アメリカ空軍、ソ連空軍などの連合国の空軍と戦った。1944年はクロアチア独立国軍にとって壊滅的な1年であり、234機の航空機を失っているが、1945年の年初の時点でなお196機の航空機を保有していた。ドイツからは1945年初頭まで新しい航空機が持ち込まれ、3月10日には23機のMesserschmitt Bf109 GおよびK、3機のMorane-Saulnier M.S.406、6機のFiat G.50、2機のMesserschmitt 110 G 戦闘機を保有していた。ドイツからは1945年3月までMesserschmitt 109 GおよびK 戦闘機がクロアチア独立国空軍に持ち込まれ、1945年4月の時点で176機の航空機を保有していた。 ドイツ支配のセルビアにはセルビア国土防衛隊(英語版)およびセルビア義勇軍団(英語版)の残余兵力が残っていた。また、スロベニア郷土防衛隊(英語版)(ドモブランツィ、Slovensko domobranstvo)もまだスロベニアに兵力を残していた。 1945年3月の時点で、クロアチア軍はまだ前線を維持していたが、弾薬の欠乏により遠からず打ち負かされるのは明白となっていた。このため、イギリス軍がイタリアからオーストリアに攻め入っている中、イギリス軍への降伏のためにオーストリアに撤退することを決定した。ドイツ軍の兵站は破壊され、彼らもまた戦闘不能に陥りつつあった。 大規模攻勢が始まった当日にビハチはパルティザンによって解放された。ペタル・ドラプシン率いるユーゴスラビア人民解放軍第4軍は、ドイツの第15SSコサック騎兵軍団(英語版)を打ち破った。4月20日までに、ドラプシンらはリカ(英語版)、中央クロアチア沿岸部を解放し、ユーゴスラビア王国時代のイタリアとの国境にまで到達した。5月1日、戦前はイタリア領であったリエカやイストラ半島をドイツ第97軍団から奪い、ユーゴスラビア第4軍はトリエステ(トルスト)で西側連合国と合流した。 コチャ・ポポヴィッチ(英語版)率いるユーゴスラビア第2軍は、4月5日にボスナ川までを制圧してドボイを占領、ウナ川にまで到達した。4月6日、第2軍団、第3軍団および第5軍団はドイツ第21軍団からサラエヴォを奪取する。 4月12日、コスタ・ナジ(英語版)率いるユーゴスラビア第3軍はドラーヴァ川まで敵を追いやり、ポドラヴィナ(英語版)地域を確保、ザグレブの北に到達し、トラボグラート地域で戦前のオーストリアとユーゴスラビアとの国境を超えた。ユーゴスラビア第3軍の自動化部隊は第4軍とともにケルンテン(コロシュカ)にて敵軍の包囲に成功する。 4月12日にはまた、ペコ・ダプチェヴィッチ率いるユーゴスラビア第1軍はスレム地方で前線を維持していたドイツ31軍を打破した。4月22日までにドイツ側の要塞を破壊し、その後ザグレブへと向かう。ユーゴスラビア西部を解放した大規模攻勢では、多くの犠牲を伴った。4月12日のスレム前線の突破は、ミロヴァン・ジラスによると、「我らの軍が経験した最大にしてもっとも血なまぐさい戦い」であり、ソビエトによる訓練や武器供与なしには成し得なかったことであった。ペコ・ダプチェヴィッチ率いる第1軍は1945年5月9日にザグレブに到達した。このときまでに第1軍では最大で死者3万6千人の損害であったと見られる。ザグレブでは40万人を超える避難民が発生した。第2軍とともにザグレブへの入城を果たした後は、両軍ともにスロベニアへと向かった。
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