パルティア遠征
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 16:59 UTC 版)
「マルクス・リキニウス・クラッスス」の記事における「パルティア遠征」の解説
詳細は「カルラエの戦い」を参照 コンスルの任期が終わらないうちにクラッススはローマを離れて、ブルンディシウム(現:ブリンディシ)よりガラティアを経由して、シリア属州へと入り、アンティオキアで冬を越した。クラッススはポンペイウスやルクッルスが成し遂げられなかったパルティア征服の野望を抱いた。息子のプブリウス・リキニウス・クラッススはガリア戦争に従軍させていたが、カエサルは騎兵を付けてこの遠征に送り出している。アルメニア王アルタウァスデス2世は、アルメニア領へと進軍することが考えられるパルティアを迎え撃ち易いこと、補給路が容易であることの理由から、クラッススにアルメニアを経由してパルティア領へと侵攻するよう提案し、クラッススが率いる約4万の軍の兵站もクラッススに約束したが、クラッススはアルタウァスデス2世の提案を断り、砂漠地帯を横切ってパルティア領へ進むことを決断した。 紀元前53年、クラッスス軍はカルラエ(現:ハッラーン)でスレナス率いる騎兵部隊のパルティアンショットによる攻撃の前に敗北を喫した。クァエストル(財務官)ガイウス・カッシウス・ロンギヌスは戦線の再編成を主張したがこれを退けた。しばらくしてカッシウスは戦線を離脱し、手勢を率いてシリア属州まで撤収した。カッシウスの提案の後にパルティア側から交渉の申し出があり、兵士らはクラッススに交渉に応じることを要求した。クラッススは罠とは知りながら「私は敵に騙されて死んだのであって、市民諸君によって敵に売り渡されたわけではない」との言葉を残して、パルティア軍との交渉に向かった。 オクタウィウス(レガトゥス)ら数名の部下と共にパルティア軍陣地に徒歩で向かったが、クラッススがパルティア軍から馬を与えられて騎乗したと同時に、パルティア軍から攻撃を受けて、クラッススは捕獲され、溶かした金を口に注がれて殺された。クラッススを殺害したのは、エクサトレスなるパルティア兵とも伝えられる。パルティア軍はクラッススの首と右手を切り落として、パルティア王へと献上した。 クラッススの死とポンペイウスに嫁いだカエサルの娘ユリアの死によって(紀元前54年没)、微妙な関係にあったポンペイウスとカエサルの関係を抑えていた重石が外れる格好となり、やがてカエサル派と元老院派がローマを二分して争うローマ内戦が勃発することとなった。
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