対パルティア戦争
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/09/12 08:33 UTC 版)
「プブリウス・リキニウス・クラッスス」の記事における「対パルティア戦争」の解説
父によるパルティア遠征に従軍するため、ガリアを離れて、ゲルマン騎兵ら兵1,000を連れて、紀元前54年冬にシリア属州に滞在していた父の本軍と合流した。紀元前53年、軍の一部隊を任されてパルティアとの戦いに臨んだものの、パルティアによる父の本軍とプブリウスの別働隊を引き離す計略にかかって敗北を喫し、配下のギリシア人に逃亡を進言されたが、自害して果てた。その後、ローマ軍はパルティア軍にカルラエの戦いで完敗して、父や総督副官オクタウィウスを始めとした多数の将兵が戦死した。 プブリウスの死後、妻コルネリアは紀元前52年にグナエウス・ポンペイウスの5番目の妻となったが、紀元前49年9月に自身の目の前で再び夫の死に遭遇することとなった。
※この「対パルティア戦争」の解説は、「プブリウス・リキニウス・クラッスス」の解説の一部です。
「対パルティア戦争」を含む「プブリウス・リキニウス・クラッスス」の記事については、「プブリウス・リキニウス・クラッスス」の概要を参照ください。
- 対パルティア戦争のページへのリンク