紀元前52年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/18 18:09 UTC 版)
紀元前52年は、ローマ暦の年である。
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- 1 紀元前52年とは
- 2 紀元前52年の概要
- 3 死去
紀元前52年(ガリア戦争7年目)
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「ガリア戦争」の記事における「紀元前52年(ガリア戦争7年目)」の解説
アッコの処刑によって大いに自尊心を傷つけられたカルヌテス族は、全ガリア部族が一丸となって反ローマに立ち上がるよう密談を重ね、その密談が進む間もコトゥアトゥスやコンコンネトドゥムヌスらはケナブム(現:オルレアン)を攻撃して多数のローマ人を殺害した。 また、セノネス、パリシイ、ピクトネス、カドゥルキ、アウレルキ等ガリア各族はアルウェルニ族のウェルキンゲトリクスにガリア軍の最高指揮権を委ねることで合意した。早速、ウェルキンゲトリクスはビドゥリゲス族やルテニ族、ニティオブロゲス族らをガリア連合軍に引入れるのに成功した。更に、かつてカエサルのブリタンニア遠征に参加していたアトレバテス族の族長コンミウスも反乱に加わった。 以上はカエサルがローマ滞在中の出来事であり、カエサルはクラッスス父子の戦死やプブリウス・クロディウス・プルケルの暗殺等による事後対応でローマ本国内での政争に足を取られていたことから、これらガリア人の動きに対して後手に回ることとなった。 カエサルはガリア到着次第、軍を率いてビドゥリゲス族の主邑・ゴルゴビナ(en)へ進軍した。その道中でセノネス族のウェッラウノドゥヌム(Vellaunodunum、現:ヴィヨン)、カルヌテス族のケナブム、ビドリゲス族のノウィオドゥヌム(現:ヌヴェール)等を攻略した。 ウェルキンゲトリクスはここで「焦土作戦」を考案して、ローマ軍の兵站の寸断を図るべく多くの城市を焼き払うが、アウァリクム(現:ブールジュ)は住民の嘆願もあって「焦土作戦」からは外された。カエサル軍はこのアウァリクムを攻略したが、この時脱出できたのは全市民40,000人の内1000名弱のみで、残りは殺戮された(アウァリクム包囲戦)。 カエサルは6軍団をもってアルウェルニ族の主邑・ゲルゴウィア攻略に乗り出した。しかし、これまで親ローマで兵站を担っていたハエドゥイ族がウェルキンゲトリクス側へ軸足を移しつつあり、ゲルゴウィア攻略も長期化の様相を呈したことから、ローマ軍はゲルコウィア攻略を断念した(ゲルゴウィアの戦い)。 山岳地とアルウェルニ族支配地域を迂回するため、ローマ軍は一度北上してから東方へ転じた。ウェルキンゲトリクスはローマ軍を追尾して攻撃を仕掛けた。しかし、ゲルマン騎兵とローマ重装歩兵の共同行動によってガリア軍は敗退した。ガリア軍は逆に追われる立場となり、マンドゥビイ族の都市アレシアへ逃げ込んだ。 一方で、アウレルキ族やセノネス族らを抑えるべくカエサルとは別に4軍団を率いていたラビエヌスは、アウレルキ族のカムロゲヌスらとルテティア(現:パリ)で衝突して、これに勝利を収めてカムロゲヌスを討ち取った(ルテティアの戦い(フランス語版、英語版))。 なお、これに先立って、親ローマのレミ族及びリンゴネス族、ゲルマニア人の攻撃により身動きの取れないトレウェリ族以外のガリア部族の代表が集結し、全会一致でウェルキンゲトリクスを最高司令官にすることを決議した。 カエサルはウェルキンゲトリクスらガリア軍が立て篭もるアレシアを包囲。激戦の末、アレシアを陥落させてガリア軍を破った。詳細な経過はアレシアの戦いを参照。
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