紀元前53年
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/09/18 18:11 UTC 版)
紀元前53年は、ローマ暦の年である。
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- 1 紀元前53年とは
- 2 紀元前53年の概要
- 3 脚注
紀元前53年(ガリア戦争6年目)
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「ガリア戦争」の記事における「紀元前53年(ガリア戦争6年目)」の解説
インドゥティオマルス戦死後もトレウェリ族はセノネス族やカルヌテス族らと共に抵抗し、アッコ(Acco)を首謀者として蜂起したが、カエサルはセノネス族やカルヌテス族を降伏させた。さらに、カエサルはアンビオリクスを匿う姿勢を見せたメナピイ族へ攻め込んで降伏させた。 トレウェリ族へはラビエヌスを派遣し、スエビ族がレヌス川を越えてトレウェリ族へ援軍を送ったものの、ローマ軍はこれを撃破した。トレウェリ族を指導していたインドゥティオマルスの親族はゲルマニアへと逃れ、新たにキンゲトリスク(Cingetorix)がトレウェリ族の指導者となった。カエサルは再びゲルマニア遠征を行ったが、主な討伐対象であったスエビ族は森の奥深くへと退いてローマ軍を迎え撃つ姿勢を示したことから、カエサルも深追いせずに撤退した。 カエサルはアンビオリクスの追討戦を始め、エブロネス族のもう1人の族長であったカタウウォルクスは自殺したものの、アンビオリクスはアルドゥエンナの森(Arduenna、現在のアルデンヌ地方及びサンブル川からライン川に至る地域)へと逃れた。カエサルは、輜重をアドゥアトゥカへ置いた上でクィントゥス・キケロに守らせ、海岸地方へはラビエヌス、アトゥアトゥキ族への抑えにガイウス・トレボニウスを派遣した。カエサルは、他のガリア人やゲルマニア人がエブロネス族を攻撃するように仕向けたが、逆にゲルマン系スカンブリ族にアドゥアトゥカのローマ軍輜重部隊が襲撃されるなどし、大きな成果は得られなかった。カエサルはセノネス族らが反乱を起した件でアッコを処刑した。 なお、この年に第一回三頭政治の一角であるクラッススと息子のプブリウスがパルティアとの戦いで戦死(カルラエの戦い)、前年にはポンペイウスの妻でありカエサルの娘であったユリアも死去しており、マルクス・ポルキウス・カト(小カト)ら元老院の反カエサル派の暗躍もあって両者の間に隙間風が徐々に差し込みつつあった。
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