反カエサル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/22 21:41 UTC 版)
「ルキウス・スクリボニウス・リボ」の記事における「反カエサル」の解説
カエサルがローマに軍を進めた際(紀元前49年1月)、リボはエトルリアの守備を担当していたが、マルクス・アントニウスの進撃を阻止できず撤退した。その後カンパニアで徴兵を行い、その部隊を率いることとなった。カエサル陣営の知人を介し、リボはブリンディシウムでカエサルとポンペイウスの交渉を仲介しようとしたが、失敗した。その後ポンペイウスはバルカン半島に渡り、リボはマルクス・カルプルニウス・ビブルスを総司令官とする海軍を、マルクス・オクタウィウスと共に率いた。ポンペイウス側海軍の任務は、カエサルをイタリアに封じ込めることであった。紀元前49年の終わりまでに、リボはダルマチアからカエサル側のプブリウス・コルネリウス・ドラベッラを駆逐し、海路カエサルへの援軍を輸送していたガイウス・アントニウスを捕虜とした。 しかし紀元前48年の初め、カエサルはエピロスに上陸した。リボは再び和平交渉をまとめようとし、オリックでカエサルと会談をもった。カエサルはポンペイウスに特使を派遣することを主張したが、リボが特使の安全を保証できなかったために、この交渉は失敗に終わった。その後すぐに、海軍を率いていたビブルスが病死したために、リボが司令官となった。リボの主たる任務はブルンディシウムにいるアントニウスがカエサルと合流することを阻止することであったが、これにも失敗した。 ファルサルスの戦いでポンペイウスが敗北した後、リボはカエサルに下った。その後の数年間は、政治活動から離れてイタリアやローマで過ごした。リボはキケロ、ティトゥス・ポンポニウス・アッティクス、マルクス・テレンティウス・ウァロと交友し、『年鑑(Annals)』を執筆するなど、特定の人々には知られていた。
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