反カトリック意識と王位継承者排除法
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「アメリカ合衆国における政教分離の歴史」の記事における「反カトリック意識と王位継承者排除法」の解説
1662年12月、チャールズ2世はカトリックを保護するための「信仰自由宣言」を出したが、議会が撤回させた。1670年にチャールズ2世はフランスのルイ14世とドーヴァーの密約を交わし、イングランド王がカトリックに改宗することを条件にフランスが軍事支援と年金を贈るとされた。1672年の第二次信仰自由宣言でカトリックは保護された。しかし、これにも議会は反対し、審査法では公職からカトリックが除外され、チャールズ2世の弟で次期国王候補のヨーク公ジェームズ(後のジェームズ2世)も追放された。1678年にはカトリックが王暗殺計画に関与していたという「教皇主義者の陰謀」が明るみにされ(カトリック陰謀事件)、王は騎士議会を解散し、「カトリックによる陰謀を阻止するために」議会と王が争うようになり、再び清教徒革命以前の反カトリック意識が高まっていった。議会はカトリックであるヨーク公を王位継承者から排除する王位排除法案が提出されると、反対派(嫌悪派)と法案賛成派(請願派)が全国規模で争われた。反対派(嫌悪派)はやがてトーリーと呼ばれ、王への服従と国教会体制の堅持を原則にした。請願派はやがてホイッグと呼ばれ、王権を制限して議会主権や宗教的寛容を主張し、非国教徒から支持された。 1679年には教皇の人形を焼くデモがロンドンでなされ、請願派の動きは高揚したが、王は譲歩せずに議会を解散してホイッグ弾圧を始めた。1682年、ホイッグの中心であったシャフツベリ伯爵アントニー・アシュリー=クーパーはジョン・ロックらとオランダへ亡命した。
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