反インドの姿勢
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/08/11 01:41 UTC 版)
「パルデン・トンドゥプ・ナムゲル」の記事における「反インドの姿勢」の解説
第11代シッキム王タシ・ナムゲル(以下、「タシ」と略す)の次男。兄のパルジョルは1941年にインド空軍で勤務中に事故死していたため、パルデン・トンドゥプ・ナムゲル(以下、「パルデン・トンドゥプ」と略す)が後継者として育成されることになった。 1946年末、パルデン・トンドゥプはインドが独立する直前、タシの命により使節団を率いてインドに向かい、シッキムの地位について交渉した。当初、インド側は他の藩王国と同様にインド領へ編入することをシッキム側に提案したが、シッキム側はこれを拒否したため、1947年2月28日にシッキムとインドとの間で暫定協定が結ばれた。これによりシッキムは辛うじて独立を維持したが、国内では政治的混乱が激化していく。 1950年12月5日、タシがインド・シッキム条約に調印したが、これによりシッキムはインドの保護国と位置づけられてしまった。 1951年、パルデン・トンドゥプはチベットの名家の娘サンゲ・デキと結婚し、彼女との間には3人の子(息子2人、娘1人)が生まれたが、サンゲ・デキは1957年に死去している。その後、1963年3月20日にアメリカ人女性ホープ・クックと再婚した。彼女とのあいだには2人の子(息子1人、娘1人)が生まれた。 1963年12月4日、タシの崩御に伴い、パルデン・トンドゥプが国王として即位した。パルデン・トンドゥプはシッキムがインドの保護国たる地位に置かれていることに、皇太子時代から強い不満を抱えていた。そのためパルデンは、タシの親インド路線を転換して独立追求路線に転じ、公的な場でインド・シッキム条約改正やシッキムの自国軍事力増強を強く主張し、インド政府にもその要求を伝えた。一方のインド側でも、パルデン・トンドゥプがホープと結婚したことは、彼女を通してアメリカから独立支援を受けることが狙いではないかとの報道がなされることもあって、パルデン・トンドゥプへの不信感を醸成する環境が作り出されていった。
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