反イタリア抵抗運動
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/04/11 08:51 UTC 版)
「オマル・ムフタール」の記事における「反イタリア抵抗運動」の解説
.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{display:flex;flex-direction:column}.mw-parser-output .tmulti .trow{display:flex;flex-direction:row;clear:left;flex-wrap:wrap;width:100%;box-sizing:border-box}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{margin:1px;float:left}.mw-parser-output .tmulti .theader{clear:both;font-weight:bold;text-align:center;align-self:center;background-color:transparent;width:100%}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{text-align:left;background-color:transparent}.mw-parser-output .tmulti .text-align-left{text-align:left}.mw-parser-output .tmulti .text-align-right{text-align:right}.mw-parser-output .tmulti .text-align-center{text-align:center}@media all and (max-width:720px){.mw-parser-output .tmulti .thumbinner{width:100%!important;box-sizing:border-box;max-width:none!important;align-items:center}.mw-parser-output .tmulti .trow{justify-content:center}.mw-parser-output .tmulti .tsingle{float:none!important;max-width:100%!important;box-sizing:border-box;text-align:center}.mw-parser-output .tmulti .thumbcaption{text-align:center}} ムフタールとゲリラ 1929年6月、停戦合意後のムフタール(左端)、バドリオ(中央)、シチリアーニ(右から3人目) ムフタールはイドリースによりリビア司令官に任命され、対イタリア運動の指揮を執ることになった。ムフタールはキレナイカの地形と砂漠戦に熟知しており、1924年までに各地の反イタリア・ゲリラを指揮下に置いた。ゲリラ戦の際にはイタリア軍の補給ルートと通信施設を集中的に攻撃し、イタリア軍を追い詰めていった。 1925年4月、イタリア軍の反撃により勢力が減退すると戦術を変更し、ベドウィンや隣国のエジプトからの支援を取り付け反撃を始め、1926年のベンガジでの戦闘では敗北するもののイタリア軍に甚大な損害を与えた。反イタリア勢力は1927年から1928年にかけて勢力を拡大し、1,000人以上のイタリア兵を殺害した。 1929年1月、リビア総督のピエトロ・バドリオが和平を提案。ムフタールは交渉に応じ、6月に副総督のドメニコ・シチリアーニ(イタリア語版)との間で停戦に合意した。11月8日、イタリア兵4人がゲリラに殺害され、トリポリタニア総督のエミーリオ・デ・ボーノは戦闘再開を指示した。また、1930年1月10日にはシチリアーニがムフタールを「裏切者」として非難する声明を発表した。これに対し、ムフタールはサヌーシー教団のリビアにおける政治指導者ムハンマド・レダーの亡命を理由に戦闘再開を正当化した。 1930年3月、ムッソリーニは徹底的な鎮圧を行うためシチリアーニを解任し、ロドルフォ・グラツィアーニを後任の副総督に任命した。グラツィアーニは5月29日、ムフタールに協力する宗教指導者たちの資産を接収し、抵抗運動を資金面で追い込んだ。また、バドリオはムフタールとベドウィンの連携を絶つため、強制収容所を建設しベドウィンを強制的に隔離するように指示し、グラツィアーニはこれを実行した。さらに、グラツィアーニはエジプトからの支援を阻止するため、リビア-エジプト国境を封鎖しムフタールへの支援ルートを遮断した。 1930年8月、グラツィアーニはゲリラの拠点であるオアシスに爆撃を開始し、12月16日に地上部隊を派遣してオアシスを壊滅させた。
※この「反イタリア抵抗運動」の解説は、「オマル・ムフタール」の解説の一部です。
「反イタリア抵抗運動」を含む「オマル・ムフタール」の記事については、「オマル・ムフタール」の概要を参照ください。
- 反イタリア抵抗運動のページへのリンク