反カトリック政策の再開
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「火薬陰謀事件」の記事における「反カトリック政策の再開」の解説
1604年2月19日、ジェームズは、妻のアン王妃が、彼のスパイの一人アンソニー・スタンデン卿(英語版)を通してローマ教皇からロザリオを送られたことを知り、即座にカトリック教会を糾弾した。その3日後には、イエズス会をはじめとするすべてのカトリック司祭に国外退去を命じ、国教忌避者に対する罰金の徴収を再開した 。また、ジェームズはイングランド国内のカトリック教徒たちへの懸念から、イングランドとスコットランドの連合に注力した。例えば財務大臣や枢密院顧問を歴任することになるジョージ・ホーム(英語版)といったスコットランド貴族を政権に招き入れたが、これはイングランド議会の不興を招いた。議員の中には「北方からの人々の流入」を歓迎しないことを表明し、「不毛の地から肥沃な地へと移された植物」に例える者もいた。また、スコットランド貴族に国教忌避の罰金徴収を許可したことは更なる不満を募らせた。1605年に5,560人が国教忌避で有罪判決を受け、そのうち112人が土地所有者であった。少数派である富裕層のカトリック教徒が、教区の礼拝に出席することを拒んだ場合、月に20ポンドの罰金が科せられた。さらに裕福な場合には、年間収入の3分の2が罰金として科せられた。中産層の国教忌避者の罰金は、週に1シリングであったが、これらの徴収は「無計画でいい加減」だった。ジェームズが権力を握ったとき、これらの罰金の総額は年間約5,000ポンド(2020年の価値に換算して約1,200万ポンド)であった。3月19日、ジェームズは初のイングランド議会での開会演説を行い、自分は平和を願うが、それには「本当の宗教を公表すること」によってのみ可能であると述べた。彼はまたキリスト教連合について語り、宗教的迫害は避けたいと繰り返した。カトリック教徒にとってこの演説は「自分たちの信仰が再びできるよう希望している」にも関わらず、「この王国において数と力を増やしてはならぬ」と明確にされたものであった。ジョン・ジェラード神父は、この言葉がイエズス会への迫害を強める原因になったのは間違いないとし、オズワルド・テシモンド神父は教皇派が抱いていた初期のジェームズへの期待に対する答えだと把握した。この演説の1週間後、シェフィールド卿(英語版)はノーマンビーの巡回裁判所に連れてこられた900人を超える国教忌避者について国王に報告し、4月24日には、イングランドのカトリック教会の信者たちを違法化すると見なせる余地のある法案が議会に提出された。
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