反キリスト論・終末論
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「テサロニケの信徒への手紙二」の記事における「反キリスト論・終末論」の解説
第二テサロニケ書第2章1 - 12節に登場する「不法の者」は、反キリストと同一視されることがしばしばである。本来、反キリストという言葉は、『新約聖書』の中ではヨハネの手紙一・同二のみに見られる言葉であり、そこではキリスト教の教えに背く者(たち)という以上の意味を持っていない。また、第二テサロニケ書では一貫して「反キリスト」の語は用いられておらず、それをここでの終末論の特色と見なす論者もいる。 しかしながら、古代から中世にかけて、キリスト教終末論や反キリストのイメージが発展する中で、第二テサロニケ書の描く「不法の者」をはじめとする一連のタイムテーブルは、中心的な影響力を持ったことも事実である。 「反キリスト」は「不法の者」やマタイによる福音書などに登場する「偽キリスト」(偽メシア)などとも混ぜ合わされ、神に敵対する具体的な一個の存在として認識されていくようになる。4世紀のキュリロスやヒエロニムスもそうした視点から第二テサロニケ書の解釈を展開した。 そうした観点は、正典に含まれるダニエル書、ヨハネの黙示録に次いで中世の終末論で影響力を持ったといわれる偽書『メトディウスの予言書』(7世紀)にも含まれており、未来予言にあたる第10章以下の土台に第二テサロニケ書の第2章1節から12節の叙述が置かれている。 また、モンチエ=アン=デルのアドソ(英語版) が10世紀半ばに西フランク王ルイ4世の妃ゲルベルガ(英語版)の下問に答える形でまとめた書簡は、中世の反キリスト論の画期をなした。その叙述に際してアドソが基礎においたのが第二テサロニケ書の第2章であった。その反キリスト描写は、それ以前に流布していたものよりもキリストの降誕のパロディ色が強いものだが、その中で反キリストがエルサレムで偽の奇跡を起こして支持を集め、その一方で恐怖によっても人々を従えることなども紹介されている。彼の反キリスト論は概括的なものではあったが、他方で物語的でもあったために、中世を通じてそこに多くの誇張が加えられ、反キリスト像の形成に大きな影響力を持った。 ルネサンス期になるとマルティン・ルターが現れて宗教改革を行うが、このルターがローマ教皇を反キリスト呼ばわりしていたことはよく知られている。彼がその際に引き合いに出したものの一つが第二テサロニケ書であった。また、同時代のイングランドのジョン・ジューエル(英語版)も『「聖パウロがテサロニケ人へ送った二通の手紙」注解』において、教皇が反キリストであると主張した。しかし、神の宮に座する不法の者を教皇庁に君臨する教皇と見なす発想は、すでに中世から見られたモチーフでもあった。
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