暗殺計画
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1932年 (昭和7年) 1月4日権藤空き家に、古内栄司、東大七生社の四元義隆、池袋正釟郎、久木田祐弘や海軍の古賀清志、中村義雄、大庭春雄、伊東亀城が集まり会合が持たれた。この席で、陸軍将校との連携をあきらめ、民間組の有志と海軍将校組で決起すること、1月9日に同志を集めて再度会合を持つことが決められた。 1月9日の会合には、井上、四元、池袋、古内、久木田、川崎と古賀、中村をはじめとする海軍将校組が出席した。藤井斉大尉 (進級) は欠席したが、後に会議の決定を了承した。 この時点では、日召は拙速なテロ決行には消極的だった。日召はテロではなく、5月頃にクーデターを実行することを考えていた。何人かの軍部の同志が満州に派遣されており、今後も海軍将校の戦地派遣が予定されていたため、帰国後の5月頃が適当と考えたためである。 井上は会議の冒頭で2案を提示した。第1案は、失敗を期し捨石となる覚悟で行ける所まで行ってみる、第2案は、適当な時期まで待ち軍部将校との共同戦線を張る、というものだった。古内だけは日召と同様に慎重論だったが、それ以外のメンバーは「第1案即時決行」の声で一致、簡単に「異議なし」と決まった。日召も流れに抗することが出来ず、賛成に回った。 この日の謀議で、紀元節に政界・財界の反軍的巨頭の暗殺を決行することが決定され、藤井斉ら地方の同志に伝えるため四元が派遣されることになった。 具体的な決定内容は以下のとおりである。 一、われわれ同志だけでまず”テロ”を敢行する。 一、期日は二月十一日の紀元節とし、集団的に行うこと。 一、地方にいる海軍の同志の意向を聞くために、四元を派遣すること。 一、武器は主として拳銃を用いることとし、海軍側でこれを準備すること。菅波に預けてある拳銃は、海軍の同志がこれを取ってくること。 一、西田税、大川周明および菅波その他、在京の陸軍同志とは従来どおりに連絡をとり、われわれの決起ののち、後続の部隊として立たしむるよう誘致すること。 一、地方にいる陸軍および海軍の同志に対しては、われわれとともに”テロ”に立ちあがらせるよう努力すること 紀元節を提案したのは四元で、皇居に政府要人が多数参内するのでそれを一斉に襲撃すれば成功率が高いだろう、と考えたからである。財閥要人に関しては、「二月十一日までに、狙ってやり易いときにやる」と決まった。 四元は1月11日に、西日本へ向けて出かけていった。翌12日、呉で海軍の村上に会い、14日には佐世保で三上・藤井と面会した。十月事件以後、井上は藤井に疑いを抱くようになっており、四元の面会はその偵察も兼ねていたが、特に不審な点はなかった。が、藤井にはこの頃憲兵の尾行がついており、藤井と接触したことで四元にも尾行がついた。尾行を巻く必要から、四元は帰省する振りをして鹿児島へ帰り、約1週間後には尾行も消えたので、次の目的地へ向かうことにした。しかし、この時間的ロスが暗殺計画の変更を招くことになった。 1月26日、鎮海に赴き山岸と面会、28日は舞鶴に到着し村上と会ったが、同日、第1次上海事変が勃発し、佐世保の藤井・三上は戦地に送られていった。これで海軍将校組の参加が厳しくなってきたので、頭数を揃える必要から京都帝大グループを舞鶴まで呼び出し指示を与えた。 同時に、この時期に新たな同志として森憲二 (京都帝大法学部生) が入ってきた。これに入れ替わるように、川崎長光が宇都宮の軍隊に特務兵として入隊することが決まり、1月20日に権藤空き家に顔を出し、その晩泊まった後、翌朝西田の家に行き様子を探ってから宇都宮に発った。川崎は1月9日の謀議に参加したが、入隊した結果、暗殺自体には参加できなくなった。そのため、血盟団事件発覚後警察から事情聴取されたがすぐに釈放されている。 一方、在京グループは、四元が期限を過ぎても戻ってこないため (井上は、四元に尾行がついたことを知らされてはいたが)、紀元節のテロ決行をあきらめざるを得なかった。次の計画では、2月20日が狙われた。この日は、衆議院選挙の投票日に当たっていたので人ごみに紛れて暗殺が実行できると考えたためである。
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