暗殺計画失敗
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/18 17:41 UTC 版)
その後の1971年8月から9月にかけて南方を視察中の毛沢東が、視察先で林彪らを「極右」として猛烈に批判したことを機に、身辺の危機を感じた林彪とその側近らは、9月5日に毛沢東の乗った専用列車を爆破する暗殺計画の実行を決意し、8日に実行に移した。 これに併せ林彪と林立果、妻の葉群や側近らは毛沢東暗殺計画成功後のクーデターの準備のために河北省北戴河に移った。なお、毛沢東暗殺計画成功の暁には北戴河から北京に戻り、副主席の林彪が毛沢東党主席の後継者となるつもりであった。また、計画失敗の際は広州で林彪を首班とする新政権を樹立、もしくは当時中華人民共和国と対立関係にあったソビエト連邦へ亡命する計画であった。 しかし事前に暗殺計画の情報が毛沢東らに漏れたために、毛沢東らは専用列車を当初の杭州から直接北上させ上海で下車するルートから、紹興へ迂回させた上で、上海で下車せず12日に北京へと戻るルートを取ったために爆破に至らず、最終的に暗殺計画は失敗した。 なお、「暗殺計画の情報が毛沢東に漏れたのは、林彪の娘の林立衡(中国語版)が毛沢東側近の周恩来総理に密告したため」との説があり、現在はこの説が定説となっている。「当初、林彪は毛沢東暗殺まで考えていなかったが、最終段階になって息子の林立果にクーデターと暗殺計画を打ち明けられ、急遽実行を了承した」という説もある。また暗殺計画は林立果と葉群らが立案したもので、林彪は関与していなかったという説もある。林彪側近軍最高幹部で林彪事件の政治責任を問われた黄永勝・呉法憲・李作鵬・邱会作らは、事件は彼らにとっても寝耳に水だったと回想している。邱会作は、もし林彪が実際にクーデターを企てていたなら必ず自分たちに相談があった筈だ、「林彪は大軍事家であり、実戦経験も豊富であることを忘れてはならない。林彪がもしクーデターを実行したなら必ず成功していただろう」、と述べて、林彪の関与に否定的な見方を示している。
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