古内栄司
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 05:36 UTC 版)
古内は、1923年に師範学校を卒業後、石下(いしげ)小学校、その後結城小学校に赴任した。しかし、ここで体調を崩し休職、以後2年間闘病生活を送らねばならなかった。 古内の生活は元々苦しかったが、この間に、古内の父親の事業のトラブルが発生し、更に家賃の滞納の問題に悩まされるようになった。古内の父親が生業としていた建設の請負業で、使っていた大工の失敗がもとで責任をとらざるを得なくなり、支払い不能に陥ったあげく、詐欺罪で告訴される寸前までいった。これが原因で父親が病気になり、間もなく亡くなった。 このような困難に直面した古内は、偶然から姉崎正治・山川智應編纂による『高山樗牛と日蓮上人』に接し次第に日蓮宗に接近するようになった。更に、田中智学の著書を読み、国柱会に関心を抱くようになった。 日召との関係は、水戸の実家に帰る際に利用した水浜鉄道で偶然見かけた護国堂の広告から生まれた。古内は広告を見て護国堂に行き日召の話を聞いて以降、護国堂で修業を積むようになり、師弟関係が生まれた。
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