騎士議会
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/06/16 14:37 UTC 版)
「アントニー・アシュリー=クーパー (初代シャフツベリ伯爵)」の記事における「騎士議会」の解説
チャールズ2世の即位後召集された議会では保守派が圧倒的勝利をおさめ、国王・国教会支持の時代となった。この時の議会は王に従順だったため騎士議会とよばれている。アシュリーは王政復古の立役者として王の覚えがめでたくなり、枢密院のメンバーになったほか、国王を自宅に招いてパーティーをしたりもした。この時にはじめて、チャールズ2世の庶子であるモンマス公ジェイムズ・スコットと対面した。 騎士議会が行ったのは、共和政・護国卿時代の「政治犯」を処罰することであった。誰を処刑台に送るかで紛糾したが、アシュリーは対象をチャールズ1世の処刑に署名した者に限るべきだと主張した。結果的に彼は、護国卿時代にアシュリーを白眼視していたランプ議会のアーサー・ヘジルリッジら幾人かの命を救った。 騎士議会を主導していたのはクラレンドン伯爵エドワード・ハイドである。彼はクラレンドン法典とよばれる諸立法を制定し、カトリック及び非国教会プロテスタントをきびしく弾圧した。アシュリーはカトリックの取り締りには賛成する一方、非国教会プロテスタントをも非合法化することには反対した。この頃からクラレンドン伯とアシュリーの関係は冷え込んでいった。 ロンドン大火で知られる1666年、アシュリーは湯治のためオックスフォードを訪れた。そこで出会ったのがジョン・ロックで、彼の思想にほれ込んだアシュリーは彼を私設秘書として手許に置いた。後にアシュリーが出版するパンフレットの多くは、ロックが関わっていたと考えられている。
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