復讐の抑止
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/29 21:11 UTC 版)
「エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)」の記事における「復讐の抑止」の解説
王政復古を安定させるためにクラレンドン伯が重視したのが革命派に対する復讐を抑止することだった。ブレダ宣言に基づき、1660年8月には仮議会で免責・大赦法が決議され、チャールズ1世弑逆者(レジサイド、チャールズ1世処刑執行令状署名者)や共和国指導者などを例外として革命期の行動について原則免責となった。 これにより弑逆者は既に死亡した者を除き、全員が裁判にかけられ、そのうち29名に死刑判決が下った(実際の死刑は10名で残り19名は終身刑に減刑された)。また弑逆者以外ではヘンリー・ベインが「危険な共和主義者」として処刑された。クラレンドン伯と国王は復讐をこれにとどめようとした。1661年に騎士派(王党派)が多く選出された騎士議会(英語版)で共和国指導者13名が新たに厳罰リストに加えられた際にもクラレンドン伯は国王とともにこの法案の通過を阻止している。王政復古を失敗させないためには「過去を忘れる」ことが肝要なのであった。 また共和政期の土地変動については、共和政府が没収した教会領・王領・王党派所領は、その購入者への正当な補償もなしに無条件回復としたが、共和政府に「悪意を抱く者」として課せられた罰金を支払うために自発的に土地を売ったケースは、返還なしとした。共和派・王党派双方から一定の支持を得られるようにした妥協策であった。しかし共和政期に土地売却に追い込まれた王党派は、王への忠誠の見返りがないとしてこれに不満を抱いた。彼らは大々的な復讐政策を実行して、革命派の土地を奪いとり、自分たちの物としたがっていた。これがクラレンドン伯に対する最初の不満となった。
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