立憲王政体制を目指して
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「エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)」の記事における「立憲王政体制を目指して」の解説
クラレンドン伯が目指す政治体制はもちろん国王親政ではなく、長期議会初期にクラレンドン伯含むほぼ全議員の賛成により制定された一連の法律によって制限された立憲王政である。これらの法律を王政復古政府はほとんど受け継いでいる。各種の大権裁判所を復古させることもなかった。 1640年11月に長期議会が招集されてから1642年2月までに制定された法律は国王の同意を得て成立しているからすべて有効であり、それ以降の法律は国王の同意を得ずに議会が単独で決めた物なので「条例(ordinance)」にすぎず、無効というのが王政復古政府の基本的な立場であった。 ただし王政復古政府が長期議会初期の法定で受け継がなかったものが2つある。1つは3年議会法である。これは議会が3年以上休会した場合には議会は解散されたものとみなして「国王の解散詔書なしに」総選挙が実施されると定めた法律である。チャールズ2世は自分の詔書をないがしろにしているこの法律を嫌悪し、1664年3月に騎士議会の王党派に働きかけてこれを改正させ、「国王の解散の詔書なしに」の一文は削除されることになった。現実的には王政復古政府が3年以上も議会を開かないで統治を行うことはまず不可能だったであろうが、国王としてはいざという時の議会招集・解散権を自分の手に残しておきたかったものと思われる。 もう一つは聖職者議席剥奪法である。これにより主教たちが貴族院に参加できなくなっていたが、1661年5月に召集された騎士議会の王党派国教徒たちによって真っ先に廃止され、主教たちは再び貴族院に議席を持つことになった(以降現代まで主教たちは貴族院に議席を保有している)。 逆に1642年以降の国王の承認のない法律による制度でも王政復古政府が引き継いだものもある。クラレンドン伯が長期議会初期の立法を原点としながらも、共和政の良き遺産は受け継ぐことをためらわない人物だったことによる。 たとえば国の財政について国王大権に基づく課税を復活させず、共和政期に確立された課税制度を引き継いだ。これによりイギリスは国王の私財から統治の費用を賄うという封建的財政を脱皮し、恒常的な租税収入により国民が国家財政を支えるという近代的な租税国家となった。国王にはその中から経費を王室費として与えることになった。 また大権裁判所のうち後見裁判所は1646年に廃止されたが、この廃止は引き継いだ(ただし国王にその代償の金銭を支払った)。「クロムウェルの航海条例」と呼ばれる航海奨励法も引き継いだ。これはイギリスが世界中に植民地を獲得して大英帝国を建設する布石となる。
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