立憲的国王派として
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「エドワード・ハイド (初代クラレンドン伯爵)」の記事における「立憲的国王派として」の解説
これ以降ハイドら穏健進歩派は国王と近しくなり、「立憲的国王派」と呼ばれるようになる。 ハイドは急進的な議会外大衆の圧力から議会を守ると同時に、国王に対してもこれまで議会が制定した法律を遵守する姿勢を示すことで、専制を復活しようとしているのではないかという国民の不信を払拭するよう努めるべきであると助言した。 だが国王はこの助言を聞き入れなかった。1642年1月3日には強硬王党派の初代ブリストル伯爵(英語版)ジョン・ディグビーにそそのかされた国王がピムら急進派議員をクーデタ的に逮捕しようとして失敗する事件が発生した。 この事件に対する憤慨により議会は完全に急進派(特にピム)が牛耳るところとなった。これまで国王寄りだった貴族院ももはや庶民院の急進派に逆らわなくなった。立憲国王派の肩身は狭くなったが、ハイドは国王と議会の和解を諦めず、穏健派の再結集を狙うとともに国王にロンドンから離れないよう助言した。しかし身に危険を感じた国王はイングランド北部のヨークへ逃亡し、そこを王党派の拠点にし始めた。5月半ばにはハイド追及の機運も高まり、逮捕を恐れたハイドはヨークの国王のもとへ逃れた。 1642年6月に議会はヨークにいる国王に対して19か条提案を送り、国王の高官・裁判官任免権、軍の統帥権、教会改革権を議会に譲渡することを要求した。国王はこれを拒否し、ハイドとフォークランド子爵に反論文を作成することを命じた。2人はその反論文の中で次のように論じて議会主権を拒否して立憲王政の必要性を訴えた。「我々の先人たちの経験と知恵は、イングランドの政体を君主制、貴族制(貴族院)、民主制(庶民院)の3つを混合することで、それぞれの利点を王国に与えることができるように、また均衡が3つの身分間に存在する限り、それぞれの制度に内在する不都合が生じないようにと築き上げてきた。君主制の長所は一人の君主のもとに国民を統合し、その結果外敵の侵略や国内の暴動を阻止することである。貴族制の長所は人々の利益のために、国の最も有能な人物を会議体へと結びつけることである。民主制の長所は自由と自由がもたらす勇気と勤勉である」。 この反論文を宣戦布告と見た議会は7月初めにも第3代エセックス伯ロバート・デヴァルーを指揮官とする議会軍を組織し、対する国王も8月にノッティンガムに国王軍の集結を命じた。こうして内乱は不可避の情勢となり第一次イングランド内戦(en:First English Civil War)が始まった。
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