第一次イングランド内戦とは? わかりやすく解説

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第一次イングランド内戦(1642年 - 1646年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 08:51 UTC 版)

ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス」の記事における「第一次イングランド内戦(1642年 - 1646年)」の解説

ついに1642年8月イングランド内戦勃発しハーグ滞在していたヘンリエッタ・マリアは、歯痛頭痛風邪、咳などに悩まされつつも、イングランド国王派支援のために軍資金調達開始した。主にイングランド王冠の宝飾担保にして、オラニエ公家やデンマーク王家国王派への助力求めている。 しかしながらヘンリエッタ・マリア資金調達容易に成功しなかった。王冠ちりばめられていた宝飾には莫大な価値があり簡単に売りさばけるものではなかったうえに、王家伝来宝物売却することは政治的観点からも非常に危険な行為だった。さらに買い手立場からしても、ヘンリエッタ・マリアによる法的根拠のない私的な売却だったとして、将来イングランド議会から宝石返還強いられる可能性があったため、おいそれと購入するわけにはいかなかったのである最終的にヘンリエッタ・マリア王冠のとくに小さな宝飾担保として、目標にはとどかなかったものの軍資金調達することに成功したしかしながらヘンリエッタ・マリアが、宗教紛争解決する武器購入するために外国人王冠宝飾売却した報道機関発表したことが、イングランド国内における王妃評判をさらに悪化させる結果招いてしまった。ヘンリエッタ・マリアは、当時ヨーク滞在していた国王チャールズ1世に対して断固たる姿勢を示すことと軍事上重要な港湾都市キングストン・アポン・ハル早急に確保することを促したが、チャールズ1世の対応は遅々として進まずヘンリエッタ・マリア怒り買っている。 1643年初頭に、ヘンリエッタ・マリアイングランドへの帰還企図した。一度目はハーグから船でイングランド目指したが、途中で暴風雨のために沈没寸前となり、船出した港へと引き返すことを余儀なくされた。また、同時期にヘンリエッタ・マリアは、議会要請出荷停止されていた船一隻分の武器を、早くイングランドへと送るようにオランダに働きかけたりもしている。ヘンリエッタ・マリア2度目イングランドへ帰還しようとしたのは1643年2月末のことで、このときにお抱え占星術師天災見舞われるだろうと予言していたが、それを無視して船出だった。このときのイングランド帰還成功し議会派派遣した海軍妨害切り抜けヘンリエッタ・マリアヨークシャーのブリッドリントン (en:Bridlington) に軍隊武器とともに上陸することができた。追跡してきた議会派軍艦がブリッドリントンを砲撃し始めたために、ヘンリエッタ・マリア一行はすぐに近隣の場所へ避難せざるを得なかったが、このとき従者置き去りにされた愛犬のミッテを助け出すために、ヘンリエッタ・マリア砲弾降りそそぐブリッドリントンへと戻っている。 その後ヨーク一息ついたヘンリエッタ・マリアは、忠実な王党派であるニューカッスルウィリアム・キャヴェンディッシュから歓待を受け、モントローズ侯ジェイムズ・グラハム斡旋により、スコットランド国王派や反議会派現状打破向けて議論する機会得た。さらにアントリム伯ランダル・マクドネル(英語版)の、アイルランド根拠地としてイングランドチャールズ1世に兵を送り議会派対抗するという軍略支持している。 ヘンリエッタ・マリアチャールズ1世に完全な勝利をもたらすため全精力をつぎ込み議会派持ち込む妥協案は歯牙にもかけなかった。議会派首魁ピムハムデンからの、講和条約締結するためにチャールズ1世働き変えて欲しいという親書一蹴し即座に議会から弾劾されたこともあった。こうした動き一方で議会ではサマセット・ハウスヘンリエッタ・マリア建てたカトリック様式個人礼拝堂取り壊す決議と、この礼拝堂管理していたカプチン会修道士逮捕とが投票かけられていた。そして、3月議会派庶民院議員ヘンリー・マーティンと、マッセリーン子爵ジョン・クロットワージー(英語版)が兵とともに礼拝堂乱入しルーベンス描いた祭壇画数々彫刻打ち壊してヘンリエッタ・マリア所蔵していた宗教的な絵画書物礼服燃やしつくした1643年の夏にロンドン代わりに新しく王宮置かれオックスフォード向かって南下していたヘンリエッタ・マリアは、その途中ウォリックシャーのキネトン (en:Kineton) で、チャールズ1世再開果たした。このときヘンリエッタ・マリアたどった旅程は、内戦最中イングランド中部地方ミッドランド英語版))を縦断するという非常に困難なもので、チャールズ1世の甥ルパートウォリックシャーストラトフォード・アポン・エイヴォン王妃護衛の兵を手配している。困難な旅ではあったが、兵とともに屋外食事とったり途中で友人宅を訪問するなど、ヘンリエッタ・マリアはこの旅を非常に楽しんでいた。ヘンリエッタ・マリアオックスフォード到着は、王妃称える詩が作られるなど、大きな歓呼迎えられた。このときヘンリエッタ・マリア口添え寵臣ヘンリー・ジャーミンが、チャールズ1世から男爵位を与えられている。 1643年の秋から冬を、ヘンリエッタ・マリアチャールズ1世とともにオックスフォード過ごした。この場所でイングランド内戦前同様に楽しく宮廷生活が送れるように、ヘンリエッタ・マリアはできる限りのことをしている。オックスフォードでのヘンリエッタ・マリア住まいは、ロンドン王宮から運ばせた調度品飾られオックスフォード大学マートン・カレッジ学長室だった。ロンドン時代からヘンリエッタ・マリア側近くに仕えていたデンビ伯夫人スーザン劇作家ウィリアム・ダヴナント、宮廷小人は、オックスフォードでも変わらず傍らにあり、ヘンリエッタ・マリア自らブリッドリントンで救出したミッテを始めとする犬たち部屋溢れかえっていた。しかしながらオックスフォードは、王宮であるとともに国王派拠点として軍事要塞化された都市であり、この相反する雰囲気ヘンリエッタ・マリアの心をしばしば痛めさせる要因ともなっていた。 1644年初頭ごろから国王派軍の戦況悪化していった。議会派軍がイングランド北部国王派軍を圧倒し始め3月のオールズフォードの戦い敗北によって、オックスフォード安全な場所ではなくなり、当時ヘンリエッタ・アンを身篭っていたヘンリエッタ・マリアは、イングランド西部安全なバースへと避難することが決まったチャールズ1世は、自身行動共にすることとなった二人王子チャールズジェームズアビンドンまでヘンリエッタ・アンを見送ったのちにオックスフォードへと戻っている。そして、これがヘンリエッタ・マリアとチャールズ1世との最後別れとなったヘンリエッタ・マリアバースからさらに南西都市エクセターへと移動し出産備えたしかしながら議会派軍の指揮官であるエセックス伯ロバート・デヴァルーウィリアム・ウォラーは、国王夫妻離れ離れになっているという状況有効に活用しよう謀略巡らせていた。ウォラーチャールズ1世追跡して国王軍足止めをしているうちに、エセックス伯エクセター攻撃してヘンリエッタ・マリア捕らえチャールズ1世対す有効な切り札にしようと画策しのである。 この計画に従って6月エセックス伯率い軍隊エクセターへと進攻した。当時出産間近だったヘンリエッタ・マリア健康状態思わしくなく、チャールズ1世ロンドン残っていた王室侍医テオドール・ド・マイエルヌに対して、危険を冒してエクセターまで赴き、ヘンリエッタ・マリア看病するよう依頼している。6月16日にヘンリエッタ・アン王女出産した後のヘンリエッタ・マリア容態はかなり悪化していたが、エセックス伯脅威身近に迫りエクセターから逃れることを余儀なくされた。逃避行危険なものになることは明白だったために、ヘンリエッタ・マリア生まれて間もないヘンリエッタ・アンをエクセター残し7月14日コーンウォールファルマスからオランダ船でフランス向けて出航した旅の途中ウォリック伯ロバート・リッチ率い議会派軍艦から激し攻撃受けたが、敵に投降することなく航海続行させたヘンリエッタ・マリアフランス軍港ブレスト到着し自身実家であるフランス王家に保護された。 ヘンリエッタ・マリア脱出から12日前の7月2日ルパート国王軍マーストン・ムーアの戦い大敗1644年終わりごろにはチャールズ1世立場極めて脆弱なものとなっていき、ヘンリエッタ・マリアヨーロッパ大陸募る軍資金兵士必要不可欠となっていた。しかしながら1645年になってからも国王派軍は敗北続けヘンリエッタ・マリアとチャールズ1世が交わす書簡議会派軍が強奪しその内容暴露される始末だった。そして、6月14日ネイズビーの戦いでの敗戦国王派にとって極めて大きな敗北となった。第一次イングランド内戦の帰趨決定付けたのは、このネイズビーの戦いと翌7月のラングポートの戦い英語版)で、この二つ戦闘による敗北国王派軍は事実上壊滅したといえる。そしてチャールズ1世1646年5月に、当時スコットランド最大派閥だった長老派の軍にノッティンガムシャーのサウスウェルで投降したが、その後イングランド議会派身柄引き渡された。

※この「第一次イングランド内戦(1642年 - 1646年)」の解説は、「ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス」の解説の一部です。
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