第一次イングランド内戦(1642年 - 1646年)
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「ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス」の記事における「第一次イングランド内戦(1642年 - 1646年)」の解説
ついに1642年8月にイングランド内戦が勃発し、ハーグに滞在していたヘンリエッタ・マリアは、歯痛、頭痛、風邪、咳などに悩まされつつも、イングランドの国王派支援のために軍資金の調達を開始した。主にイングランド王冠の宝飾を担保にして、オラニエ公家やデンマーク王家に国王派への助力を求めている。 しかしながら、ヘンリエッタ・マリアの資金調達は容易には成功しなかった。王冠にちりばめられていた宝飾には莫大な価値があり簡単に売りさばけるものではなかったうえに、王家伝来の宝物を売却することは政治的観点からも非常に危険な行為だった。さらに買い手の立場からしても、ヘンリエッタ・マリアによる法的根拠のない私的な売却だったとして、将来イングランド議会から宝石の返還を強いられる可能性があったため、おいそれと購入するわけにはいかなかったのである。最終的にヘンリエッタ・マリアは王冠のとくに小さな宝飾を担保として、目標にはとどかなかったものの軍資金を調達することに成功した。しかしながらヘンリエッタ・マリアが、宗教紛争を解決する武器を購入するために外国人に王冠の宝飾を売却したと報道機関に発表したことが、イングランド国内における王妃の評判をさらに悪化させる結果を招いてしまった。ヘンリエッタ・マリアは、当時ヨークに滞在していた国王チャールズ1世に対して、断固たる姿勢を示すことと軍事上重要な港湾都市キングストン・アポン・ハルを早急に確保することを促したが、チャールズ1世の対応は遅々として進まずにヘンリエッタ・マリアの怒りを買っている。 1643年初頭に、ヘンリエッタ・マリアはイングランドへの帰還を企図した。一度目はハーグから船でイングランドを目指したが、途中で暴風雨のために沈没寸前となり、船出した港へと引き返すことを余儀なくされた。また、同時期にヘンリエッタ・マリアは、議会の要請で出荷が停止されていた船一隻分の武器を、早くイングランドへと送るようにオランダに働きかけたりもしている。ヘンリエッタ・マリアが2度目にイングランドへと帰還しようとしたのは1643年2月末のことで、このときにお抱えの占星術師が天災に見舞われるだろうと予言していたが、それを無視しての船出だった。このときのイングランド帰還は成功し、議会派が派遣した海軍の妨害を切り抜け、ヘンリエッタ・マリアはヨークシャーのブリッドリントン (en:Bridlington) に軍隊、武器とともに上陸することができた。追跡してきた議会派の軍艦がブリッドリントンを砲撃し始めたために、ヘンリエッタ・マリアの一行はすぐに近隣の場所へと避難せざるを得なかったが、このとき従者に置き去りにされた愛犬のミッテを助け出すために、ヘンリエッタ・マリアは砲弾が降りそそぐブリッドリントンへと戻っている。 その後、ヨークで一息ついたヘンリエッタ・マリアは、忠実な王党派であるニューカッスル伯ウィリアム・キャヴェンディッシュから歓待を受け、モントローズ侯ジェイムズ・グラハムの斡旋により、スコットランドの国王派や反議会派と現状打破に向けて議論する機会を得た。さらにアントリム伯ランダル・マクドネル(英語版)の、アイルランドを根拠地としてイングランドのチャールズ1世に兵を送り、議会派に対抗するという軍略を支持している。 ヘンリエッタ・マリアはチャールズ1世に完全な勝利をもたらすため全精力をつぎ込み、議会派が持ち込む妥協案は歯牙にもかけなかった。議会派の首魁ピムやハムデンからの、講和条約を締結するためにチャールズ1世に働き変えて欲しいという親書を一蹴し、即座に議会から弾劾されたこともあった。こうした動きの一方で、議会ではサマセット・ハウスにヘンリエッタ・マリアが建てたカトリック様式の個人礼拝堂を取り壊す決議と、この礼拝堂を管理していたカプチン会修道士の逮捕とが投票にかけられていた。そして、3月に議会派の庶民院議員ヘンリー・マーティンと、マッセリーン子爵ジョン・クロットワージー(英語版)が兵とともに礼拝堂に乱入し、ルーベンスが描いた祭壇画や数々の彫刻を打ち壊して、ヘンリエッタ・マリアが所蔵していた宗教的な絵画、書物、礼服を燃やしつくした。 1643年の夏にロンドンの代わりに新しく王宮が置かれたオックスフォードへ向かって南下していたヘンリエッタ・マリアは、その途中のウォリックシャーのキネトン (en:Kineton) で、チャールズ1世と再開を果たした。このときヘンリエッタ・マリアがたどった旅程は、内戦の最中のイングランド中部地方(ミッドランド(英語版))を縦断するという非常に困難なもので、チャールズ1世の甥ルパートもウォリックシャーのストラトフォード・アポン・エイヴォンへ王妃護衛の兵を手配している。困難な旅ではあったが、兵とともに屋外で食事をとったり、途中で友人宅を訪問するなど、ヘンリエッタ・マリアはこの旅を非常に楽しんでいた。ヘンリエッタ・マリアのオックスフォード到着は、王妃を称える詩が作られるなど、大きな歓呼で迎えられた。このときヘンリエッタ・マリアの口添えで寵臣ヘンリー・ジャーミンが、チャールズ1世から男爵位を与えられている。 1643年の秋から冬を、ヘンリエッタ・マリアはチャールズ1世とともにオックスフォードで過ごした。この場所でイングランド内戦前と同様に楽しく宮廷生活が送れるように、ヘンリエッタ・マリアはできる限りのことをしている。オックスフォードでのヘンリエッタ・マリアの住まいは、ロンドンの王宮から運ばせた調度品で飾られたオックスフォード大学マートン・カレッジの学長室だった。ロンドン時代からヘンリエッタ・マリアの側近くに仕えていたデンビ伯夫人スーザン、劇作家ウィリアム・ダヴナント、宮廷小人は、オックスフォードでも変わらず傍らにあり、ヘンリエッタ・マリア自らブリッドリントンで救出したミッテを始めとする犬たちも部屋に溢れかえっていた。しかしながらオックスフォードは、王宮であるとともに国王派の拠点として軍事要塞化された都市であり、この相反する雰囲気がヘンリエッタ・マリアの心をしばしば痛めさせる要因ともなっていた。 1644年初頭ごろから国王派軍の戦況は悪化していった。議会派軍がイングランド北部で国王派軍を圧倒し始め、3月のオールズフォードの戦いの敗北によって、オックスフォードも安全な場所ではなくなり、当時ヘンリエッタ・アンを身篭っていたヘンリエッタ・マリアは、イングランド西部の安全なバースへと避難することが決まった。チャールズ1世は、自身と行動を共にすることとなった二人の王子チャールズ、ジェームズとアビンドンまでヘンリエッタ・アンを見送ったのちにオックスフォードへと戻っている。そして、これがヘンリエッタ・マリアとチャールズ1世との最後の別れとなった。 ヘンリエッタ・マリアはバースからさらに南西の都市エクセターへと移動し、出産に備えた。しかしながら、議会派軍の指揮官であるエセックス伯ロバート・デヴァルーとウィリアム・ウォラーは、国王夫妻が離れ離れになっているという状況を有効に活用しようと謀略を巡らせていた。ウォラーがチャールズ1世を追跡して国王軍の足止めをしているうちに、エセックス伯がエクセターを攻撃してヘンリエッタ・マリアを捕らえ、チャールズ1世に対する有効な切り札にしようと画策したのである。 この計画に従って、6月にエセックス伯率いる軍隊がエクセターへと進攻した。当時出産間近だったヘンリエッタ・マリアの健康状態は思わしくなく、チャールズ1世はロンドンに残っていた王室侍医テオドール・ド・マイエルヌに対して、危険を冒してエクセターまで赴き、ヘンリエッタ・マリアを看病するよう依頼している。6月16日にヘンリエッタ・アン王女を出産した後のヘンリエッタ・マリアの容態はかなり悪化していたが、エセックス伯の脅威が身近に迫りエクセターから逃れることを余儀なくされた。逃避行が危険なものになることは明白だったために、ヘンリエッタ・マリアは生まれて間もないヘンリエッタ・アンをエクセターに残し、7月14日にコーンウォールのファルマスからオランダ船でフランスに向けて出航した。旅の途中にウォリック伯ロバート・リッチが率いる議会派の軍艦から激しい攻撃を受けたが、敵に投降することなく航海を続行させたヘンリエッタ・マリアはフランスの軍港ブレストに到着し、自身の実家であるフランス王家に保護された。 ヘンリエッタ・マリアの脱出から12日前の7月2日にルパートの国王軍はマーストン・ムーアの戦いで大敗、1644年の終わりごろにはチャールズ1世の立場は極めて脆弱なものとなっていき、ヘンリエッタ・マリアがヨーロッパ大陸で募る軍資金と兵士が必要不可欠となっていた。しかしながら1645年になってからも国王派軍は敗北を続け、ヘンリエッタ・マリアとチャールズ1世が交わす書簡も議会派軍が強奪し、その内容を暴露される始末だった。そして、6月14日のネイズビーの戦いでの敗戦が国王派にとって極めて大きな敗北となった。第一次イングランド内戦の帰趨を決定付けたのは、このネイズビーの戦いと翌7月のラングポートの戦い(英語版)で、この二つの戦闘による敗北で国王派軍は事実上壊滅したといえる。そしてチャールズ1世は1646年5月に、当時スコットランドで最大派閥だった長老派の軍にノッティンガムシャーのサウスウェルで投降したが、その後イングランドの議会派に身柄を引き渡された。
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