イングランド内戦前
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「ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス」の記事における「イングランド内戦前」の解説
1630年代終わりに、国王派と議会派を始めとする各派閥の対立はイングランド社会全体を巻き込んで緊張の度合いを深めていった。宗教、社会、道徳、政治権力などに関する論争が、イングランド内戦の勃発前に最高潮に達していた。このような社会的情勢のなかで、ヘンリエッタ・マリアの強固な宗教観と王宮での暮らしぶりは、イングランド内戦が起こる1642年までに「ほとんどの臣民から個人的な尊敬も忠誠心も得ることのできない、きわめて不人気な王妃」となっていた。 ヘンリエッタ・マリアはカトリック信者への共感を依然として持ち続けており、1632年にはサマセット・ハウスに新しくカトリック礼拝堂の建設を開始している。ヘンリエッタ・マリアが新しく建てさせた、外装こそ簡素ではあるが贅を凝らした内装のカトリック礼拝堂の完成式典は、1636年に華々しく挙行された。そしてこのことが、イングランドのプロテスタントたちに大きな警戒心を抱かせる結果となったのである。 ヘンリエッタ・マリアの宗教的な活動は、17世紀当時のヨーロッパにおける現代的なカトリック教義をイングランドへと持ち込むことに重点を置いていたように見える。事実、ヘンリエッタ・マリアの周囲には、感化されてカトリックに改宗する者が続出している。歴史家のケヴィン・シャープ (en:Kevin Sharpe (historian)) は、1630年代終わりのイングランドには30万人以上のカトリック信者がおり、イングランド王宮内でもカトリック信者であることが禁忌とは見なされていなかったとしている。そして、チャールズ1世は、カトリック信仰に対して明確な態度を示さず、宮廷人のカトリック改宗を阻止する策を講じなかったとして、大きな批判にさらされ始めた。また、ヘンリエッタ・マリアは、カトリックの司祭だったリチャード・ブラント (en:Richard Blount) が1638年に死去した際に、自身の個人礼拝堂で鎮魂ミサを開くことすらしている。さらに1630年代を通じて王宮で開催される仮面劇への出演を続けたことも、イングランド社会のピューリタン層から批判を受けた。ヘンリエッタ・マリアが仮面劇で好んで演じたのは、キリスト教統一、カトリック、精神的愛情を礼賛する役だった。 イングランドのプロテスタント社会からのヘンリエッタ・マリアに対する不満は、徐々に憎悪へと変わっていった。スコットランド人医師にしてピューリタン牧師だったアレクサンダー・レイトン(en:Alexander Leighton)は、チャールズ1世が主催する星室庁において宗教的な理由で有罪とされ収監される前の1630年に、ヘンリエッタ・マリアを激しく糾弾する小論文を発表している。また、1630年代終わりにはピューリタンの間で有名だった法曹家ウィリアム・プリンも、劇に出る女優たちは悪名高き売春婦ばかりだという、仮面劇に出演するヘンリエッタ・マリアに対する明らかな当てこすりを書いて、耳削ぎの刑に処せられている。ロンドンの大衆は、カトリックへの信仰制限を契機として発生した1641年のアイルランド反乱(英語版)をヘンリエッタ・マリアの責任に帰し、イエズス会がヘンリエッタ・マリアをカトリックの象徴に祭りあげて引き起こした組織的反逆であると見なしていた 。実際のところは、1630年代のヘンリエッタ・マリアがロンドンの大衆に姿を見せることはほとんどなく、チャールズ1世とともにほとんどの時間を王宮内で過ごしていた。これは国王夫妻が私生活を重要視していたことと、宮廷内の催事に時間をかけていたためだった。 1641年までに、ジョン・ピム率いる議会派の議員たちが国王チャールズ1世への圧力を強めだしたが、ピム自身も主教戦争などいくつかの内乱に関与したとして苦境に立っていた。しかしながら議会派議員は、チャールズ1世の側近だったカンタベリー大主教ウィリアム・ロードとストラフォード伯爵トマス・ウェントワースを強引に逮捕し、処刑に追い込んだ。次にピムは、チャールズ1世にさらなる圧力をかけるために、王妃ヘンリエッタ・マリアに目を付けた。1641年の終わりにはチャールズ1世への弾劾文といえる「議会の大諫奏」が議会で可決されている。この諫奏にヘンリエッタ・マリアに直接言及した箇所はなかったが、文中で糾弾されているローマ・カトリックの陰謀に、ヘンリエッタ・マリアが関与しているとほのめかされているのは誰の目にも明らかだった。このような情勢下で、ヘンリエッタ・マリアの寵臣で、1630年代にカトリックへと改宗したセント・オールバンズ伯は、1641年にイングランドを離れて大陸への逃避を余儀なくされた。 ヘンリエッタ・マリアは、チャールズ1世にピム一派への断固たる処置を望んだとされる。そして1642年1月にチャールズ1世が下した反国王派議員(ピム、ジョン・ハムデン、アーサー・ヘジルリッジ、デンジル・ホリス、ウィリアム・ストロード)の逮捕命令にもヘンリエッタ・マリアの意思が働いていると信じられているが、この説を裏付ける確実な証拠は存在していない。結局チャールズ1世による反国王派議員の逮捕は失敗に終わり、ピム一派はチャールズ1世が派遣した拘束兵から逃れることに成功したが、これは以前ヘンリエッタ・マリアの友人だったルーシー・ヘイが反国王派議員に逮捕の情報を漏らしたためだという説がある。 ここにいたって反国王派の反発は頂点に達し、ヘンリエッタ・マリアとチャールズ1世は政治の中心であるホワイトホールにあった宮殿から、ハンプトン・コート宮殿へと隠棲することとなった。当時の在英フランス大使ラ・フェルテ・アンボー侯爵は、フランス出身の王妃ヘンリエッタ・マリアへの反感がフランスへの攻撃となることを回避しようと務めているが、チャールズ1世とフランスとの関係については全く無関心だった。ラ・フェルテ・アンボー侯爵はヘンリエッタ・マリアに身辺に気をつけることと、ピムとの和解を進言している。しかしながらイングランド情勢は確実に内戦へと向かっていき、ヘンリエッタ・マリアは自身の安全とカトリック信仰がおよぼす影響、さらにはチャールズ1世から距離を置くことによって王室に対する民衆の反感を和らげるために、2月にオランダのハーグへと居を移した。
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