イングランド内戦前とは? わかりやすく解説

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イングランド内戦前

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/02/19 08:51 UTC 版)

ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス」の記事における「イングランド内戦前」の解説

1630年代終わりに、国王派議会派始めとする各派閥の対立イングランド社会全体巻き込んで緊張度合い深めていった。宗教社会道徳政治権力などに関する論争が、イングランド内戦勃発前に最高潮達していた。このような社会的情勢のなかで、ヘンリエッタ・マリア強固な宗教観と王宮での暮らしぶりは、イングランド内戦が起こる1642年までに「ほとんどの臣民から個人的な尊敬忠誠心も得ることのできないきわめて不人気な王妃となっていた。 ヘンリエッタ・マリアカトリック信者への共感依然として持ち続けており、1632年にはサマセット・ハウス新しくカトリック礼拝堂建設開始している。ヘンリエッタ・マリア新しく建てさせた、外装こそ簡素ではあるが贅を凝らした内装カトリック礼拝堂完成式典は、1636年華々しく挙行された。そしてこのことが、イングランドプロテスタントたちに大きな警戒心抱かせる結果となったのであるヘンリエッタ・マリア宗教的な活動は、17世紀当時ヨーロッパにおける現代的なカトリック教義をイングランドへ持ち込むことに重点置いてたように見える。事実ヘンリエッタ・マリア周囲には、感化されカトリック改宗する者が続出している。歴史家のケヴィン・シャープ (en:Kevin Sharpe (historian)) は、1630年代終わりイングランドには30万人上のカトリック信者がおり、イングランド王宮内でもカトリック信者であることが禁忌とは見なされていなかったとしている。そして、チャールズ1世は、カトリック信仰に対して明確な態度示さず宮廷人のカトリック改宗阻止する策を講じなかったとして、大きな批判さらされ始めたまた、ヘンリエッタ・マリアは、カトリック司祭だったリチャード・ブラント (en:Richard Blount) が1638年死去した際に、自身個人礼拝堂鎮魂ミサを開くことすらしている。さらに1630年代通じて王宮開催される仮面劇への出演続けたことも、イングランド社会ピューリタン層から批判受けたヘンリエッタ・マリア仮面劇好んで演じたのは、キリスト教統一カトリック精神的愛情礼賛する役だった。 イングランドプロテスタント社会からのヘンリエッタ・マリア対する不満は、徐々に憎悪へと変わっていった。スコットランド人医師にしてピューリタン牧師だったアレクサンダー・レイトン(en:Alexander Leighton)は、チャールズ1世主催する星室庁において宗教的な理由有罪とされ収監される前の1630年に、ヘンリエッタ・マリア激しく糾弾する小論文発表している。また、1630年代終わりにはピューリタンの間で有名だった法曹ウィリアム・プリンも、劇に出る女優たちは悪名高き売春婦ばかりだという、仮面劇出演するヘンリエッタ・マリア対す明らかな当てこすり書いて耳削ぎの刑に処せられている。ロンドン大衆は、カトリックへの信仰制限契機として発生した1641年アイルランド反乱英語版)をヘンリエッタ・マリア責任帰しイエズス会ヘンリエッタ・マリアカトリック象徴祭りあげて引き起こした組織的反逆であると見なしていた 。実際のところは、1630年代ヘンリエッタ・マリアロンドン大衆に姿を見せることはほとんどなく、チャールズ1世とともにほとんどの時間王宮内で過ごしていた。これは国王夫妻私生活重要視していたことと、宮廷内の催事時間をかけていたためだった1641年までに、ジョン・ピム率い議会派議員たちが国王チャールズ1世への圧力強めだしたが、ピム自身主教戦争などいくつかの内乱関与したとして苦境立っていた。しかしながら議会派議員は、チャールズ1世側近だったカンタベリー大主教ウィリアム・ロードストラフォード伯爵トマス・ウェントワース強引に逮捕し処刑追い込んだ次にピムは、チャールズ1世さらなる圧力をかけるために、王妃ヘンリエッタ・マリア目を付けた1641年終わりにはチャールズ1世への弾劾といえる議会の大諫奏」が議会可決されている。この諫奏にヘンリエッタ・マリア直接言及した箇所はなかったが、文中糾弾されているローマ・カトリック陰謀に、ヘンリエッタ・マリア関与しているとほのめかされているのは誰の目にも明らかだったこのような情勢下で、ヘンリエッタ・マリア寵臣で、1630年代カトリックへと改宗したセント・オールバンズ伯は、1641年イングランド離れて大陸へ逃避余儀なくされた。 ヘンリエッタ・マリアは、チャールズ1世ピム一派への断固たる処置望んだとされる。そして1642年1月チャールズ1世下した国王派議員ピムジョン・ハムデンアーサー・ヘジルリッジデンジル・ホリスウィリアム・ストロード)の逮捕命令にもヘンリエッタ・マリア意思働いていると信じられているが、この説を裏付ける確実な証拠存在していない。結局チャールズ1世による反国王派議員逮捕失敗終わりピム一派チャールズ1世派遣した拘束兵から逃れることに成功したが、これは以前ヘンリエッタ・マリア友人だったルーシー・ヘイが反国王派議員逮捕情報漏らしたためだという説がある。 ここにいたって国王派反発頂点達しヘンリエッタ・マリアとチャールズ1世政治の中心であるホワイトホールにあった宮殿から、ハンプトン・コート宮殿へと隠棲することとなった当時の在英フランス大使ラ・フェルテ・アンボー侯爵は、フランス出身王妃ヘンリエッタ・マリアへの反感フランスへ攻撃となることを回避しよう務めているが、チャールズ1世フランスとの関係については全く無関心だった。ラ・フェルテ・アンボー侯爵ヘンリエッタ・マリア身辺気をつけることと、ピムとの和解進言している。しかしながらイングランド情勢確実に内戦へ向かっていき、ヘンリエッタ・マリア自身の安全とカトリック信仰がおよぼす影響さらにはチャールズ1世から距離を置くことによって王室対す民衆反感和らげるために、2月オランダハーグへと居を移した

※この「イングランド内戦前」の解説は、「ヘンリエッタ・マリア・オブ・フランス」の解説の一部です。
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