イングランド及びウェールズの王領地
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「クラウン・エステート」の記事における「イングランド及びウェールズの王領地」の解説
イングランド及びウェールズの王領地(Crown lands)の歴史は、ノルマン・コンクエストに遡る。ウィリアム1世の死亡後、彼が「征服の権利」によって取得した土地は、広く手つかずの状態で残されていた。しかし、その後に即位した国王らは、貴族や諸侯らに対して土地を授け、彼らから奉仕と軍備の提供を受けていた。国王の元に残された土地は、王室領(royal manors)として分割され、家令(seneschal)によってそれぞれ別個に管理された。ウィリアム1世及びアン女王の治世の間に、土地の譲渡が続き、何世紀かのうちに王領地は、拡張する一方で、激減していた。エドワード1世はウェールズにまでその所有を広げた。ジェームズ1世はスコットランドに自身の王領地を有しており、これは最終的にイングランド及びウェールズの王領地と統合された。しかし、処分される土地が取得した土地を上回っており、1660年王政復古の時点で、王領地から生じる収益は推定26万3598ポンド(現在の3569万675ポンド相当)であったところ、ウィリアム3世の治世の終わり(1689年-1702年)には、6000ポンド(現在の88万6054ポンド相当)にまで落ち込んでいた。 ウィリアム3世の治世以前、王国のすべての収益は、政府の一般的な経費に充てるため、王に帰属していた。その収益には、次の2種類が存在した。 王領地、封建的権利(1660年に世襲の物品税へと替わる)、郵便事業や特許から得られる利益等に主として由来する世襲の収益、及び 王に与えられる一定年数又は終身の税収からなる暫定的収益 名誉革命後、議会はその暫定的収益のうち大部分を議会のコントロール下におき、国王を海軍及び陸軍の費用並びに公債の負担から解放した。ウィリアム3世、アン女王、ジョージ1世及びジョージ2世の時代、国王は、市民政府を維持する責任及び王室の世帯及びその尊厳を支える責任を依然として負っていたことから、その目的を達成するのに必要な限りで、世襲収益及び一定の税収を充てることが許容されていた。 国家システムが拡大するにつれ、市民政府の維持コストが、王領地及び封建的権利から得られる利益を超過するようになり、その差額は国王個人の債務となっていた。 ジョージ3世は、即位に伴い、政府にかかる費用を負担する義務を放棄して関連する負債をなくすのと併せて、王領地の利益を議会へと委譲した。そして、財政的に困窮することを防ぐため、国王は、王室費として固定額を支給されるほか、ランカスター公領からの利益を得られるすることになった。王は、世襲で受け継がれていた物品税、郵便事業の収益、及び世襲収益全体から見ると「小さなもの」であるイングランドにおける王領地の賃料(およそ1万1000ポンド、現在の149万9917ポンド相当)を含む収益を議会のコントロールに委ねた。そして、王室各員に支払われる年金という形で、王室一家の生活を維持するため、80万ポンド(現在の1億908万4906ポンド相当)の王室費が年金として支給されることになった。 王は、多額の世襲収益を得ていたが、その利益は課せられた費用の支払には不十分なものであった。王は特権を濫用して自身の支援者らに報いるために金銭や物を贈っていたからである。ジョージ国王の時代における300万ポンド(現在の2億1626万5586ポンド相当)に及ぶ負債は議会によってその支払いがなされ、王室費である年金の額は適宜増額された。 エリザベス2世を含め、その後即位した国王らは、ジョージ3世と議会の間の取決めを更新していた。この運用は、19世紀までに、「憲法を構成する必須の要素となっており…これを廃止することは困難であろう」と考えられていた。しかし、国王を対象とした支給の取扱いについて見直しが行われ、2011年SSGの成立へとつながった。
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