イングランド内戦期
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「ウィリアム・レッグ (イングランド将校)」の記事における「イングランド内戦期」の解説
翌1642年に第一次イングランド内戦(1642年 - 1646年)が勃発し、レッグは国王軍に加わったが、同年4月23日にウォリックシャー州サウザム(en)で起きた小競り合いの際に捕虜となった。レッグは庶民院の決定によってゲイトハウス監獄(en)に送られたが、10月4日頃に脱走し、オックスフォードで再び国王軍に加わった。以降、レッグはプリンス・ルパート(チャールズ1世の甥、後のカンバーランド公)の側近となり、ルパートが指揮した1643年4月のリッチフィールド攻城戦では負傷し再び捕虜となった。6月18日のチャルグローヴ・フィールドの戦い(英語版)においては、戦場で一時的に捕虜となった。9月20日の第一次ニューベリーの戦い(英語版)の後、チャールズ1世はレッグに装飾を施した湾曲刀を与え、レッグをナイトに叙することを望んだ。1644年5月19日、ルパートはレッグをチェスターの臨時総督に任じた。 1645年1月にサー・ヘンリー・ゲイジ(en)が死去し、レッグはその後任としてオックスフォード総督となった。ルパートからの5月7日の指令によって、周辺地域の駐屯地もバンベリーを除きすべて指揮することとなった。これに先んじる4月12日には、レッグは国王寝室宮内官(the grooms of the king's bedchamber)の一員に任命されていた。レッグがオックスフォード総督の任にあった1645年の5月から6月にかけて、オックスフォードはトーマス・フェアファクスの軍勢に包囲され、外部との連絡を妨害された。レッグはルパートとの結びつきが強かったために、ルパートがネイズビーの戦いに敗れブリストルであっさりと降伏する失態を犯すと、レッグも権限を奪われた。チャールズ1世がオックスフォードに戻るとレッグは解放され、国王の宮内官としての任に戻った。この機会を捉えてレッグは、チャールズ1世のルパートへの勘気の修復を図ろうとし、ルパートにはチャールズ1世に従うよう促した。 オックスフォードが陥落した後レッグは国外に逃れたが、1647年7月にイングランドへ戻り、議会軍に囚われの身となっていたチャールズ1世に仕えた。レッグはジョン・バークリー(en)やジョン・アッシュバーナム(en)と結んで、軟禁されていたハンプトン・コート宮殿からチャールズ1世を脱出させ、ワイト島への逃亡に同道し、片時も側を離れなかった。議会はロバート・ハモンド大佐(en)に、レッグと仲間2人を囚人としてロンドンへ送り返すよう命じたが、ハモンドの要請を受け入れて12月29日まではチャールズ1世の許に留まることを許した。レッグとアッシュバーナムは、その後も数ヶ月にわたってハンプシャー州に留まりチャールズ1世の逃亡を画策したが、結局翌1648年5月19日に捕まり、アランデル城(en)に幽閉された。9月2日、貴族院はニューポート条約(en)の際に国王に陪席したいとして釈放を求めたレッグの要求を却下した。 レッグは、議会に敵対する目的で武器を携帯しないことを約束して和解し、釈放された。チャールズ1世の息子チャールズ2世はレッグを直ちにアイルランドへ派遣したが、1649年7月にレッグは海上で捕らえられ、大逆罪に問われてエクセター城(en)に2年以上にわたって投獄された。1653年3月に国家に対して害を及ぼすことはしないという条件で、安全に国外へ出ることを許された。
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