イングランド内戦とチャールズ1世の処刑
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/14 23:04 UTC 版)
「レジサイド (チャールズ1世)」の記事における「イングランド内戦とチャールズ1世の処刑」の解説
1642年から1651年にかけて、オリバー・クロムウェル率いる円頂党すなわち議会派と、チャールズ1世率いる(1649年まで)騎士党すなわち王党派の間で、政治権力と王権をめぐるイングランド内戦(清教徒革命)が展開された。三期に分けられる内戦のうち、第一次(1642年 - 1646年)と第二次(1648年 - 1649年)は長期議会の支持者の戦いであったのに対し、チャールズ1世処刑後の第三次(1649年 - 1651年)はランプ議会の支持者とチャールズ1世の息子チャールズ2世の支持者の戦いとなった。この内戦は1651年9月3日のウスターの戦いをもって、議会派の勝利に終わった。 第一次内戦の最後、チャールズ1世はスコットランドのプレスビテリアンの軍に捕らえられ、イングランドの議会派に引き渡された。その後彼は脱出して第二次内戦を起こすも敗北、1648年11月に議会派に投降した。1649年1月、チャールズ1世を裁くために135人の委員からなる高等法院(英語版)が組織された。委員とされた一部は前もってこの動きを知って参画を拒否したが、ほとんどの委員は同意を求められぬまま委員に選ばれていた。まず前もって非公開の場で協議が行われ、次いで公開裁判が開かれたが、135人の委員のうち47人はどちらにも顔を出さなかった。4日間の裁判の末、チャールズ1世が「暴君的に悪意をもって、現在の議会とそこに代表者としている人々に対する戦争を駆り立てた」という罪状について、67人の委員が起立して賛意を示した。そして57人の委員がチャールズ1世の死刑執行令状に署名し、後から2人が名を加えた。1月30日、チャールズ1世はホワイトホールのバンケティング・ハウス前で斬首され(チャールズ1世の処刑)、王太子のチャールズ(2世)は亡命した。これによりイングランドの王制は廃され(イングランド空位時代)イングランド共和国(1649年 - 1653年)、次いでオリバー・クロムウェルの独裁体制である護国卿時代(en)が到来した。
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