アン女王の治世
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「ジョン・グロバム・ハウ (1657-1722)」の記事における「アン女王の治世」の解説
1702年にアン女王が即位すると、同年4月21日に枢密顧問官に任命され、6月5日にグロスタシャー海軍次官(英語版)に任命された。ハウは高位の官職に任命されなかったことに不満を感じたが、郵政長官への就任打診については政敵からの「議会における癇癪は抜擢欲しさにした」([his] peevishness [in parliament] was for want of preferment)の揶揄を気にして辞退、7月に年金を受け取った程度だった。同年の総選挙ではグロスタシャーとグロスター選挙区(英語版)からの出馬を宣言する一方、保険としてボドミン選挙区(英語版)とニュートン選挙区(英語版)からも出馬、ボドミンとニュートンではそれぞれ無投票で当選した。グロスタシャーではハウがアン女王の即位を受けて選挙活動を開始したが、アン女王に提出した式辞(address)におけるウィリアム3世批判が受け入れられず、代わりにグロスタシャー統監(英語版)の第2代バークリー伯爵チャールズ・バークリー(英語版)(ホイッグ党所属)が言葉のより強くない式辞を提出した。これにより情勢がトーリー党有利にもかかわらず、グロスタシャーでは接戦になり、集計の結果はホイッグ党のメイナード・コルチェスター(英語版)と第3代準男爵サー・ジョン・ガイズ(英語版)がそれぞれ2,536票と2,394票でハウが2,370票だった。選管を務めた州長官(英語版)がハウの支持者からの説得を受けて、ガイズの得た票を調査すると、「ごろつき」(vagabonds、ハウが述べた言葉)約80名が有権者であると詐称して投票したことが判明した。これにより州長官はコルチェスターとハウの当選を宣告した。ガイズによる選挙申し立てでは州長官の行動の適法性が争われ、君主に任命される州長官がその場で票の無効を宣告できるとすると、君主が選挙結果を支配できるという結論にもなる影響の大きい申し立てだった。しかし、11月19日の審議において、どちらの言い分が正しいかについて議論も始まらないうちにサー・サイモン・ハーコートが議会のトーリー党多数を利用し、ハウの当選を認める動議を提出して221票対90票で可決させ、法律問題を回避した。グロスター選挙区でも選挙戦があったものの、投票日までにホイッグ党候補が撤退したため、ハウとウィリアム・トライ(英語版)(トーリー党所属)が無投票で当選した。結果的にはハウが4選挙区で当選した(公式にはグロスタシャーの代表として議員を務め、それ以外の3選挙区では補欠選挙が行われた)ため、1701年11月の総選挙での不人気と対比して世間体が良くなったとみられた。 第一大蔵卿の初代ゴドルフィン男爵シドニー・ゴドルフィンはハウが再び野党に転じることを危惧したが、開会直後のハウは宮廷を支持し、便宜的国教徒禁止法案に賛成するなどトーリー党元老の1人として行動した。ゴドルフィンは予防策としてハウの官職任命を検討、ハウは1702年12月22日に陸軍支払長官(英語版)(本国駐留部隊担当)に任命された。任命時点の賃金は1日10シリングだったが、1707年に1日20シリングに増額された。 陸軍支払長官に任命された後も2度目の便宜的国教徒禁止法案(1703年)に賛成するなどトーリー党の一員として行動したものの、麦芽税法案(malt bill、1703年1月)に賛成するなど独自の立場をとることも多かった。また、任命以降は陸軍支払長官としての職務を重視して庶民院での演説が減り、甥にあたるガイズも陸軍支払長官としてのハウを賞賛した。 1705年イングランド総選挙で再選を目指したが、2,385票(得票数3位)でガイズとコルチェスターに敗れて落選した。陸軍支払長官としての貢献は名声を取り戻せるほどには至らず、ゴドルフィンも初代マールバラ公爵ジョン・チャーチルもハウのために議席を探そうとしなかったが、アン女王の治世末期にはハウの名声が改善し、地誌学者サー・ロバート・アトキンス(英語版)は1712年の著作でハウが官職を得たのは「おべっかではなく、議会における自由な言論による成果であり、彼は真なる愛国者として、祖国への愛を示した」(not by flattery, but by freedom of speech in Parliament, where, as a true patriot, he always showed his love to his country)と評している。
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アン女王の治世
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「ロバート・サットン (第2代レキシントン男爵)」の記事における「アン女王の治世」の解説
アン女王の治世ではサラ・チャーチルの怒りを買っていたこともあり、ほとんど官職につけなかったが、1710年に初代オックスフォード=モーティマー伯爵ロバート・ハーレーが政権を握ると状況が改善して、ユトレヒト条約をめぐる交渉でマドリード駐在大使(1712年 – 1713年)を務めた。しかし、健康が悪化した上にマドリード駐在大使としての生活に喜ばなかったレキシントンはたびたび更迭を求め、1713年7月にようやく帰国許可を得るも出国する前に息子ウィリアム・ジョージが死去するという打撃を受けた。結局、レキシントンは12月にスペインを出るが、息子がプロテスタントだったためカトリックの国であるスペインでは問題が生じると考え、息子の遺体を布で隠して運んだ。1714年8月5日を最後に貴族院に登院しなくなり、地元で影響力を発揮するに留まった。
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アン女王の治世
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「ウィリアム・ウィンダム (第3代準男爵)」の記事における「アン女王の治世」の解説
1710年に庶民院に入り、1712年にトーリー党内閣の戦時大臣に、1713年に財務大臣になった。急進派のトーリー党指導者ボリングブルック子爵と親しく、アン女王の死後にジャコバイトのステュアート朝復帰陰謀に関与、それが失敗すると罷免され、1714年に短期間投獄された。
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