アン女王のホイッグ党政権期(1704年 – 1710年)
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/04 14:10 UTC 版)
「ジョゼフ・アディソン」の記事における「アン女王のホイッグ党政権期(1704年 – 1710年)」の解説
アディソンが帰国した時点ではパトロンのハリファックスとサマーズが官職に復帰しておらず、アディソンに外交職を与えられる見込みはなかったが、政府内におけるホイッグ党の影響力は増していた。1704年8月のブレンハイムの戦いでイングランド軍が勝利すると、大蔵卿(英語版)の初代ゴドルフィン男爵シドニー・ゴドルフィンは戦勝を祝う詩を書く詩人の人選についてハリファックスと相談、ハリファックスは十分な報酬があれば有能な作家を推薦できるとした。ゴドルフィンはそれを受けて、財務大臣のヘンリー・ボイル閣下をアディソンのもとにやって、アディソンを招聘した。アディソンは関税控訴委員(commissioner of appeals in the excise、年収200ポンドの官職)を代償に『戦』(The Campaign、1704年12月14日出版)と題する詩を書き、それが大成功を収めた。『英国人名事典』は『戦』がハリファックスのボイン川の戦いでの勝利を祝う詩よりは良く、公認詩(official poetry)としては上質と言えたが、同時代の作品のなかでは抜きんでるほどの質ではないとしている。『戦』ではマールバラ公爵を「天使」に比喩したが、サミュエル・ジョンソンが引用したサミュエル・マッデン(英語版)の意見によれば、「10人の学生に聞けば、8人が天使を使うと答えてもおかしくない」(if he had proposed the same topic to ten schoolboys, he should not have been surprised if eight had brought him the angel)ほど平凡な形容だという。ジョセフ・ウォートン(英語版)に至っては「韻を踏む官報」(Gazette in rhyme)と揶揄した。 いずれにせよ、『戦』の成功により、アディソンの文壇と政界での地位が上がり、1705年イングランド総選挙でホイッグ党が勝利するなどホイッグ党有利の情勢になったため、アディソンは1705年7月には南部省(英語版)政務次官に任命された。このときの南部担当国務大臣はトーリー党のチャールズ・ヘッジスであり、1706年12月にヘッジスが退任して第3代サンダーランド伯爵チャールズ・スペンサーが後任になったときも留任した。同年夏にハリファックス男爵がハノーファー選帝侯ゲオルク・ルートヴィヒにガーター勲章を授与するための使節に任命されると、アディソンはハリファックスに同伴してハノーファー選帝侯領に向かった。 官職に就任する傍ら、イタリアでの見聞をもとに散文を書き、1705年11月に『イタリア見聞』(Remarks on Several Parts of Italy、サマーズ男爵に献呈)としてトンソンにより出版された。この著作は出版してすぐ大人気になり、品薄状態により値段が原価の4から5倍に上がり、1718年に第2版が出版されてようやく落ち着いた。このように、『イタリア見聞』は18世紀のイギリス人が大陸ヨーロッパを旅するときの必携書とされるほどだったが、『オックスフォード英国人名事典』は現代の紀行文学からの視点では。アディソン自身は『イタリア見聞』を友人ジョナサン・スウィフトに贈っている。 散文以外ではオペラ『ロザモンド(英語版)』のリブレットを著した。『ロザモンド』は1700年代にイングランドで流行したイタリア・オペラと異なり、イングランドの伝承に基づくオペラであり、当時イギリスで上演されたオペラの多くがイタリア語の歌を含むのに対し、『ロザモンド』の歌は英語のみだった。『ロザモンド』は1707年3月4日にドルリー・レーン劇場(英語版)で上演されたが、大失敗に終わり、3日間しか上演されなかった。アディソンはオペラの作曲にトマス・クレイトン(英語版)を招聘しており、チャールズ・バーニーはこの人選が「音楽への知識と審美眼の欠如」(want of taste and intelligence in Music)と評した。のちにトマス・アーンの作曲を使用した再演(英語版)は成功を収めた。また、『ロザモンド』とほぼ同時期にスティールが喜劇『やさしい夫』(The Tender Husband、1705年)を著しており、アディソンがスティールを手伝ったためスティールは劇をアディソンに献呈した。 同1707年にはThe present state of the war and the necessity of an augmentation consideredと題するパンフレットを著しており、スペイン継承戦争におけるイギリスの戦争目標をホイッグ党の視点で記述するとともに、フランスを「ブリテン国の最も危険な敵」(most dangerous enemy to the British nation)と形容した。 1708年イギリス総選挙では選挙当日に急遽ロストウィシエル選挙区(英語版)から出馬して当選した。この出馬は上司のサンダーランド伯爵が主導した行動だった。当選したアディソンは議員失格を防ぐために、1708年6月に関税控訴委員辞任した。対立候補のフランシス・ロバーツ閣下(英語版)とラッセル・ロバーツ閣下(英語版)は選管を務めた市長アレクサンダー・ジョンズ(Alexander Johns)の不公正を主張して選挙申立てを提出、選挙委員会は1709年12月に全会一致でフランシス・ロバーツとラッセル・ロバーツの当選を宣告した。一方、アディソンは1709年1月に南部省政務次官からアイルランド主席政務官(英語版)(年収2,000ポンドの官職)に転じ、アイルランド総督の初代ウォートン伯爵トマス・ウォートンの部下になり、4月21日にダブリンに到着した。同年にアイルランド枢密院(英語版)の枢密顧問官に任命されたほか、同年から1713年までキャバン・バラ選挙区(英語版)の代表としてアイルランド庶民院(英語版)議員を務めた。『英国議会史(英語版)』によれば、アディソンは総督の部下としてよく働いたが、政治で大きな役割を果たすことはなく、アイルランド庶民院で発言した記録もなかった。ウォートンとの関係は心地よかったが、決して親しくはなかった(comfortable but never close)という。また、ダブリン城のバーミンガム・タワー記録長官(keeper of the records in the Bermingham tower、年収400ポンドの官職)に任命される形で給料の上乗せがなされた。この官職は全くの閑職であり、スウィフトは「そこの記録は半クラウンの価値もない」(all the Records there are not worth Half a Crown)と形容した。
※この「アン女王のホイッグ党政権期(1704年 – 1710年)」の解説は、「ジョゼフ・アディソン」の解説の一部です。
「アン女王のホイッグ党政権期(1704年 – 1710年)」を含む「ジョゼフ・アディソン」の記事については、「ジョゼフ・アディソン」の概要を参照ください。
- アン女王のホイッグ党政権期のページへのリンク