アン女王即位から1707年合同法可決まで
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「合同法 (1707年)」の記事における「アン女王即位から1707年合同法可決まで」の解説
1702年に即位したアン女王はイングランド・スコットランド間の政治統合を目標の1つにしており、アン女王と大臣からの後援の結果、イングランド議会とスコットランド議会は1705年に合同条約の交渉に同意した。 合同交渉にあたり、イングランドとスコットランドはそれぞれ代表31名を任命した。スコットランドの代表は大半が合同を支持し、うち約半数が官僚で、代表的な人物にはスコットランド王璽尚書(英語版)の第2代クイーンズベリー公爵ジェイムズ・ダグラスとスコットランド大法官(英語版)の第4代フィンドレイター伯爵ジェイムズ・オグルヴィがある。イングランドの代表は大蔵卿(英語版)の初代ゴドルフィン伯爵シドニー・ゴドルフィン、国璽尚書の初代クーパー男爵ウィリアム・クーパー(英語版)、そして合同を支持するホイッグ党が多数を占め、合同を支持しなかったトーリー党員で代表に任命されたのは1名だけだった。 イングランド代表とスコットランド代表の交渉は1706年4月16日から7月22日までロンドンのコックピット=イン=コート(英語版)で行われた。イングランドとスコットランドにはそれぞれの目標があったが、結果としてはイングランドが「ハノーヴァー家がアン女王の後継者としてスコットランド王に即位する」という目標を、スコットランドが「イングランドの植民地との貿易権を保障する」という目標を達成した。 1706年7月に交渉が終了し、合同条約が締結された後、条約はイングランド・スコットランド両議会で批准される必要があった。スコットランド議会の議員227名のうち、約100名がコート派(英語版)(宮廷派)であり、不足した票数には第4代モントローズ侯爵ジェイムズ・グラハムと第5代ロクスバラ伯爵ジョン・カー率いるスクアドロン・ヴォランテ(英語版)という当てがあった。合同反対派は一般的にはカントリ派(英語版)と呼ばれていたが、その内訳は第4代ハミルトン公爵ジェイムズ・ハミルトン、第2代ベルヘイヴン=ステントン卿ジョン・ハミルトン(英語版)、アンドリュー・フレッチャー(英語版)など多くの党派の人物が含まれている。コート派はイングランドからの潤沢な資金援助を得ており、ダリエン計画で借金が重なった人物も多かった。 1707年1月にスコットランド議会では合同法案への採決が行われ、賛成110票・反対68票で議会を通過し法案可決となった。この際に、合同成立に関して功績の大きいクイーンズベリー公爵はスコットランドの住民からは批判されたが、イングランドでは賞賛された。また、クイーンズベリー公爵はイングランドからの資金援助の約半分を受け取っており、1707年4月17日にはケンジントン宮殿でアン女王に謁見した。
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