アン法―近代の著作権の誕生
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2019/10/01 05:45 UTC 版)
「著作権の歴史」の記事における「アン法―近代の著作権の誕生」の解説
イギリスのアン法 (1710年) は、近代の著作権法に大きく影響を与えた最初の著作権法である (歴史的に最初の著作権法はヴェネツィアにおいて1545年に制定されているが、これによる近代の著作権への影響は小さい)。この法案の完全な題名は"An Act for the Encouragement of Learning, by vesting the Copies of Printed Books in the Authors or purchasers of such Copies, during the Times therein mentioned."(邦訳:「一定期間の間、印刷された本の複写を、著者やその本の購入者に帰属させることにより、学問の推奨を行う法律」)である。この法律の制定には、本来の著作権として著作者の権利を定めようとする下院の考えと、既得権益回復に向けた印刷会社の請願の両者の思惑が存在した。出版業界の影響力は大きく、当初案に存在した著作者の財産権を強調する部分が削除されるなどしたものの、著作権(この法律では Copyright という用語は使用されていない)は、印刷業者でなく、著作者(すなわち創作者)に排他的な権利として与えられた。この法律は、その様な排他的権利は28年間であると定め、それが過ぎた後、全ての作品はパブリックドメインとなると定めた。アン法は、書籍出版業組合独自のシステムと同様の独占権を作り出すものであったが、そこには以下の3点の違いがあった。 第1に、ギルドメンバー間のみでコピーライトの独自のシステムを管理していた書籍出版業組合に、広い独占権を与えるという以前の法と違い、アン法は一般的な公衆に適用される著作権の要点を記していた。第2に、法律は、ギルドメンバーでなく、著作者に由来するものとして著作権を考えている点である。最後の点として、この法律が、著作権者がその独占権を行使できる期間に制限を設けたことである。特に、既に出版されている本の著作権者には21年間の排他的な印刷権を与えた。まだ印刷されていない作品に対しては、法律は排他的な印刷の権利を最初の印刷後14年間を与え、権利を更に14年延長できると言う規定も追加した。しかし、印刷業者は、書籍の文章が著者により保有される資産であるため、それを印刷業者に売ることは可能であり、その結果、自分たち印刷業者がその権利を持っていると主張した。 1710年の法律には、領土的な抜け道が存在した。この法律は英国の全ての領土に及ぶわけではなく、イングランド、ウェールズのみをカバーするだけであった。スコットランドに関しても記載はあるものの、スコットランドの裁判所で裁判を行うと記載されているだけであった。その結果、英国の著作物作品の再版のほとんどは、著作権者に対して何の許可も無く、アイルランドと北アメリカ植民地で印刷された。これらの作品は、英国の著作権者に何の支払いも行われなかったため、ロンドンの印刷版より安い値段で販売された。これらは、本の購入者には人気があった。これらは、その法律の語句的には著作権侵害ではなかったものの、イングランド等にそれらの本が入ってきた場合には、この法律が適用されていた。 アイルランドや北アメリカでも、正式に決められた支払い方法を探し、英国の著作権者に支払いを行った再版印刷業者もいたし、一方で、スコットランドにおいて、違法な再版を行っていた印刷業者も存在した。これらの違法な印刷業者はしばしば起訴されていた。 アイルランドにおける再版はロンドンの印刷業者にとって大きな関心事となっていた。アイルランドにおいて行われた再版書籍は、北アメリカに送付されていたが、それらが、国境を越え、イングランドに流入することも生じた。イギリスやスコットランドやウェールズにおいて、これらの再版本を販売した本の出版業者は訴えられることとなった。アイルランドにおける再版は1801年に終結した。これは、アイルランド議会が大英帝国に結合され、アイルランド人がイギリスの著作権法に従う必要が生じたためであった。 英国の北アメリカ植民地では、許可の無いイギリスの著作物の再版が、長期間にわたり散発的に生じていた。これは、1760年以降は主要な生産品となるほどになった。この出版はアメリカの東部13州で行われていた。これは、アイルランドとスコットランドの印刷業者や本の出版業者の北アメリカへの移動を引き起こした。彼らは、イギリス国内での著作物を再版、販売していた業者で、北アメリカにおいてもこれを継続し、北アメリカにおける印刷と出版業界の主要部分を構成した。アメリカ独立により、アメリカとのイギリスの結びつきが弱くなると、英国の著作権コントロール外となることで、再版数の増加が生じた。 英国の著作権を受けていない作品を英語で印刷する印刷業者は他のヨーロッパの国々でも発生した。英国政府はこの問題に対して2つの対応を取った。1) 1842年に著作権の法規を改正し、英国に著作権のある作品の複写を、英国もしくはその植民地へ輸入することを厳格に禁止した。2) 他の国との間で相互的な条約の締結を開始した。最初の相互協定の相手は1846年のプロシアであった。アメリカ合衆国はこの協定の外に数十年取り残されることになった。これは、チャールズ・ディケンズとマーク・トウェインの様な著者により反対を受けた。 著者と印刷業者の役割や、著作権法や、啓蒙運動に関する考え方は、この期間にそれぞれ影響しあった。それ以前には、著者は宗教的に刺激を受けていた。この結果が1つの要因となり、著者への後援は著者を支援する合法的な方法となった。後援関係を結ばず、お金を受け取る著者は、しばしば売文家とみなされ、蔑まれることとなった。しかし、1770年代にここの才能の概念が一般的となると (ドナルドソン・V・ベケットより後の世代)、お金を受け取る著者はより一般的となってきた。
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