アン女王の治世期
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2020/10/01 10:26 UTC 版)
「シドニー・ゴドルフィン (初代ゴドルフィン伯)」の記事における「アン女王の治世期」の解説
ゴドルフィン政権の方針はアンの即位前に勃発したスペイン継承戦争の対応で、イングランド軍総司令官に任命されたマールバラ公を全面的に支援する方針を取り、イングランドの内政を預かる役目を負った。ゴドルフィンはトーリー党員とはいえ穏健派でアンの支持を基盤にしていたため、戦争方針は海上制覇を主とするトーリー党とは反対の大陸派遣に決めていて、宗教でもイングランド国教会を支持していたが、国論分裂を避けるため消極的支持に留まり、非国教徒弾圧を強化する便宜的国教徒禁止法案成立に反対、国教会が非国教徒により危機に瀕しているというトーリー党の主張を封じるためアン女王基金を設立、国教徒救済に充てていった。政権は基本的に党派色が少なく政党にとらわれない中道派であった。 トーリー党からはこの姿勢から敬遠され、同じ閣僚であったトーリー党員急進派のロチェスターとノッティンガムとはそりが合わず対立、1703年にアンがロチェスターを罷免、1704年にノッティンガムが辞任したことにより穏健派で下院議長のロバート・ハーレーとヘンリー・シンジョンを登用、晴れて穏健派が主となる政権が成立した。1704年にガーター勲章を受勲、1706年にゴドルフィン伯爵に叙爵されている。スコットランドとイングランドの交渉も担当、1707年に合同条約を批准させグレートブリテン王国を成立させた。 しかし、1705年からホイッグ党が議会多数派になると政権運営にホイッグ党の力が欠かせないという認識からホイッグ党を閣僚に登用、ロバート・ウォルポールとサンダーランド伯チャールズ・スペンサー(ロバート・スペンサーの息子)を始めとするホイッグ党員を入れてホイッグ党を基盤とする政権に変化させたが、アンからは不信感を抱かれる結果となり、ホイッグ党との関係も良くなかった。アンがサラの従妹アビゲイル・メイシャムをお気に入りにするとアンとサラの仲もこじれ、穏健派として政権に協力していった国務大臣ハーレーもホイッグ党の台頭を警戒、アビゲイルを通してアンに接近して段々政権が危うくなっていった。 1708年にマールバラ公と共に辞任したが周囲の説得により撤回、反対にハーレーが非難され辞任するとホイッグ党が勢力を伸ばしたが、戦争の長期化による国内負担の増加と1709年のマルプラケの戦いによる大損害で厭戦気分が高まり、1710年2月に説教師ヘンリー・サッシェバレルが非国教徒を非難して名誉革命も批判すると裁判にかけたが、軽罪の判決が出たことからアンの信頼を失い、4月にサラがアンと絶交、6月にサンダーランドが罷免され政権を崩され、8月に大蔵卿を更迭された。9月に議会が解散して10月の総選挙でトーリー党が勝利、翌1711年にハーレーが大蔵卿に就任して新たにトーリー党政権が樹立した。新政権は和平政策を取りマールバラ公を総司令官から罷免、フランスとの単独講和を図り1712年に講和、1713年にユトレヒト条約を締結してスペイン継承戦争を終結させることになる。 更迭から2年後の1712年に67歳で死去、爵位はフランシスに受け継がれた。閣僚に登用したウォルポールの力量を見抜き、トーリー党政権に弾劾され投獄されたウォルポールの見舞いに訪れ、病床でサラにウォルポールの後を託したといわれる。ゴドルフィンの見込み通り、ハーレーらトーリー党が王位継承問題で分裂すると、ハノーヴァー朝の下で復権したホイッグ党でウォルポールが弾劾を主導してトーリー党を没落に追い込み、やがてジョージ1世に信任されイギリスの初代首相となっていった。
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