6-7歳(1983-84年)
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「ハッピープログレス」の記事における「6-7歳(1983-84年)」の解説
6歳となった1983年は、北山特別(ダート1800メートル)で始動。敗退後、田原成貴に乗り替わって短距離重賞のスワンステークスに進み、ハギノカムイオーに敗れ3着。6月の阪急杯で追い込みを決め、重賞2勝目を挙げた。12月のCBC賞ではニホンピロウイナーに敗れた2着となり、連覇とはならなかった。 7歳となった1984年は、始動戦の淀短距離ステークスでは再びニホンピロウイナーに敗れ、マイラーズカップ4着の後、関東遠征を敢行。3月18日、中山競馬場のスプリンターズステークス(GIII)に飯田明弘とともに1番人気で出走した。後方3番手から、直線大外に持ち出し追い込み、残り200メートルで抜け出し、後方に1馬身4分の3差をつけて重賞3勝目とした。続いて4月22日、東京競馬場の京王杯スプリングカップ(GII)にて1番人気で出走。出走21頭中、後方5番手に位置し、直線で大外に持ち出し追い上げを開始。先に抜け出したドウカンヤシマ、ワールドキング、ダスゲニーをかわし、ドウカンヤシマに4分の3差をつけて重賞連勝、4勝目とした。 この間に、球節の状態が悪く、コズミもあったため回避も考えられたが、5月13日の安田記念(GI)に参戦、グレード制施行により定量戦のGIにリニューアルされた初年度であった。騎乗予定の飯田が落馬負傷のため田原が騎乗、出走22頭のうち重賞勝ち馬16頭が集まり、アサカシルバーに次ぐ2番人気に推された。後方待機から第3コーナーで外、直線で大外に持ち出して追い、後方に1馬身4分の3差をつけて勝利、重賞3連勝で「春の短距離三冠」を果たした。 関西に戻った秋は、スワンステークス(GII)、第1回マイルチャンピオンシップ(GI)に参戦するも、どちらもニホンピロウイナーに敗れて3着、2着。この年限りでの引退が決まり、引退レースとして12月16日のCBC賞(GIII)に出走。ニホンピロウイナーの参戦はなかったが、負担重量61キログラムが課された。後方待機から直線で外に持ち出して追い上げ、先に抜け出したシャダイソフィアをかわし、半馬身差をつけて勝利。CBC賞2勝目、グレード重賞4勝目、JRA重賞6勝目となった。 1985年1月27日、中京競馬場にて1984年のCBC賞のゼッケン「13」を身に着け引退式を開催。同じくCBC賞の実況録音が流れる中、武が騎乗しスタンド前で走りを披露した。
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6-7歳(1982-1983年)
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「アンバーシャダイ」の記事における「6-7歳(1982-1983年)」の解説
6歳となった1982年春は緒戦のアメリカジョッキークラブカップを勝利したもの、アルゼンチン共和国杯を前年の菊花賞馬ミナガワマンナの2着、初めて西下した天皇賞(春)は本格化した「無冠の帝王」モンテプリンスを直線急追したものの、レコード優勝から1馬身余の2着と敗れた。夏にはアメリカのアーリントンミリオンへの遠征が計画されていたが、競走後に脚部不安を生じたことにより、秋まで千歳の牧場で休養に入った。復帰後は毎日王冠をキョウエイプロミスの4着、天皇賞(秋)をメジロティターンの5着を経て、連覇を目指して挑んだ有馬記念では最後の直線で先頭に立ったが、ほぼ最後方の位置から追い込んだヒカリデユールにゴール寸前で交わされ、クビ差の2着に終わった。 7歳となった1983年は前年と同じAJCCから始動し、ミナガワマンナを下して幸先の良いスタートを切る。次走のアルゼンチン共和国杯でミナガワマンナ、ホリスキーの菊花賞馬2頭と叩き合いを演じ、ハナの差でミナガワマンナに先着を許した。 迎えた天皇賞(春)では15頭立ての1番人気に支持された。スタートで出遅れたものの、慌てることなく道中は中団の後ろに付け、ミナガワマンナを見るようにレースを進めた。第3コーナーから早めにスパートをかけ、直線で先頭に立ったものの、先行馬に取り付いていたホリスキーが抜け出し一旦は先頭になった。けれどもアンバーシャダイは諦めず、残り200mを過ぎたところから巻き返して再び先頭に躍り出て激しい競り合いとなり、結局ホリスキーに半馬身差を付けて4度目の挑戦で待望の天皇賞制覇を果たし、獲得賞金は史上初の4億円突破となった。 その後は宝塚記念のファン投票において第1位に選出されたが、左前脚に繋靱帯炎を発症して休養に入る。秋まで放牧され、10月の天皇賞(秋)で復帰。自身5度目の天皇賞参戦で史上初の春秋制覇を目指したが、キョウエイプロミスの3着に終わった。。続くジャパンカップは最後の直線で伸び切れず、アイルランドの牝馬・スタネーラの6着に敗れた。 有馬記念ではミナガワマンナ、ホリスキー、キョウエイプロミスが故障で出走せず、当年シンザン以来19年ぶりの三冠馬となったミスターシービーまでも千明牧場の意向により出走を回避し、押し出されるように1番人気に支持された。好位で競馬を進めたが、先行するリードホーユーを捕らえることができず、後方から来たテュデナムキングにも差されて3着に敗れた。このレースを最後に引退したが、この3位入線で獲得賞金が4億6205万4400円となり、これは当時の歴代1位であった。同年の優駿賞最優秀古馬はキョウエイプロミスに譲ったものの、特別賞として表彰され、1984年1月15日には中山でメジロティターンと合同での引退式が行われた。
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6-7歳(1993-1994年)
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「フジヤマケンザン」の記事における「6-7歳(1993-1994年)」の解説
休養中の1993年5月29日、戸山為夫が癌により死去し、フジヤマケンザンの管理は鶴留明雄厩舎に移った。8月に復帰し、関屋記念2着、函館記念4着としたのち、9月に新規開業した森秀行の管理馬となった。森厩舎所属での初戦・福島民報杯はクビ差の2着となり、この競走を最後に小島貞博は降板となった。この年はその後3戦したが愛知杯5着が最高成績で、6歳シーズンは勝利なしという成績に終わった。 その後も瞬発力のない「ジリ脚」の特性もあり、翌1994年初戦のアメリカジョッキークラブカップ2着、続く中山記念も2着と勝ちきれなかった。中山記念の後には地方競馬主催のダート交流競走・帝王賞にも出走し1番人気に支持されたが、最下位16着と敗れている。 6月に吾妻小富士オープンを制して約1年半ぶりの勝利を挙げると、続くBSNオープンも勝ちオープン特別競走を2連勝する。秋の毎日王冠では11頭立て9番人気と低評価だったが、1800メートルで従来の記録を0秒6更新する日本レコードで勝ったネーハイシーザーから0秒2差の2着となった。しかし天皇賞(秋)は9着、ジャパンカップは11着とGI競走では苦戦が続く。12月には前年も登録しながら補欠馬に回されていた香港国際カップに出走。春から主戦騎手となっていた蛯名正義を鞍上に臨んだが、スタートで出遅れて後方からのレースとなり、最後の直線で追い込んだものの、勝ったステートタジ(オーストラリア)から3馬身4分の1差の4着となった。蛯名は「馬の調子が良かっただけに、出遅れたのが痛かった。そのうえペースはスローになってしまい、直線でも内を突くことはできなくて……」「逃がした魚は大きかった」と語った。
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6-7歳(2004-05年)
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「ダンツフレーム」の記事における「6-7歳(2004-05年)」の解説
6歳となった2004年から種牡馬となる予定だったが、屈腱炎の治りが良かったこととオーナーの希望により一転、地方競馬で競走馬復帰が決定。荒尾競馬の宇都宮徳一厩舎に入厩し、同じくして浦和競馬の岡田一男厩舎へ移籍が予定された。荒尾での能力検査では、ダート1400メートルを1分31秒5で走破して合格。10月20日、かんなづき特別(ダート1500メートル)で1年4か月ぶりの復帰し、単勝オッズ1.1倍の1番人気に支持されて出走。好位から進んだが、JRA2勝の4番人気・シゲルカミナリに5馬身離され、2着となった。 それから予定通り、浦和に移籍。浦和記念(統一GII)、東京大賞典(統一GI)、川崎記念(統一GI)と3戦に出走したが、それぞれ9着、14着、11着に敗れた。2005年6月10日、地方競馬の競走馬登録を抹消し、2度目の引退、栃木県那須郡塩原市の地方競馬教養センターにて乗用馬となった。しかし引退約2か月後の8月28日、肺炎を発症して7歳で死亡、地方競馬教養センター内に墓標が建てられている。
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6-7歳(1993年-1994年)
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「トウカイテイオー」の記事における「6-7歳(1993年-1994年)」の解説
翌1993年1月3日、左中臀筋を痛めていたことが判明し、鹿児島県の山下牧場で休養に入る。この時水面下では種牡馬となることも模索されていたが、結果的に価格が折り合わなかったため現役続行が決まった。休養開始当初は体調を立て直す意味もあり、海岸での調教が積まれた。3月に帰厩、宝塚記念での復帰を目標に調整されていたが、競走10日前に左前トウ骨の剥離骨折が判明し、再び休養に入った。10月に栗東に帰厩し、この結果、復帰戦は1年ぶりのレースとなる有馬記念(12月26日)に決まった。しかし、主戦騎手だった岡部はすでに当年の菊花賞優勝馬ビワハヤヒデへの騎乗が決定していた。そこで馬主の内村正則の意向によって武豊への騎乗も打診され、武は「自分のお手馬が出走しなければ乗ってもいい」と返答したが、主戦騎手を務める二冠牝馬ベガの出走が決まって断られたため、最終的に前年も騎乗した田原成貴で臨むこととなった。 競走前、松元は「力を出せる状態にはある」と発言したものの、田原は「順調に来ている馬相手では苦しいかも知れない」と不安を口にしていた。しかし、田原は当日のパドックで落ち着きを感じたため力を出し切れると感じ、テレビ解説の席にいた大川慶次郎は「今日のトウカイテイオーは違いますね。『ああやっと芝の上を走れる』という感じがします。喜びに満ちたいい返し馬をしていますよ」と発言した。大川は後に「この時に受けた感覚は、メジロマックイーンにも、トウショウボーイにも、テンポイントにも、シンボリルドルフにもない、それくらい、本当に素晴らしいできだったなと感じました」、「あの返し馬は、本当に素晴らしかった。トウカイテイオーがサラブレッドとしてレースに走れることの無上の喜びに浸っているようで、実に印象的でした」と振り返っている。 当年は出走14頭のうちトウカイテイオーを含む8頭がGI優勝馬という顔触れであった。テイオーは前年の有馬記念から14kg増という馬体で出走し、単勝式ではビワハヤヒデ、レガシーワールド、ウイニングチケットに続く4番人気で出走した。レースが始まると、中盤まで後方待機策をとったトウカイテイオーは、2周目第3コーナーから徐々に進出。最後の直線に入ると先に抜け出したビワハヤヒデを追走し、ゴール前の競り合いを制して半馬身差で優勝した。ゴールの瞬間、NHK競馬中継で実況を務めた藤井康生は「トウカイテイオー蘇りました!」、フジテレビで実況中継を務めた堺正幸及び関東独立U局で実況していた長岡一也は「トウカイテイオー、奇跡の復活!」と実況、田原は優勝騎手インタビューにおいて、「この勝利は、日本競馬の常識を覆したトウカイテイオー、彼自身の勝利です。彼を褒めてやって下さい」と涙を流しながら語った。馬主の内村正則は後に「本当に田原君に乗ってもらってよかった」と振り返っている。前回の出走から中364日でのGI勝利は長期休養明けGI勝利の最長記録となり、現在まで破られていない(競走詳細については 第38回有馬記念も参照のこと)。この勝利が評価され、翌1月にはJRA賞特別賞を受賞した。 翌1994年も現役を続行、天皇賞(春)を目標に調教が進められていたが、復帰予定の大阪杯を右トモの筋肉痛により回避。これを受け宝塚記念を目標に定めたが、4月14日に前回故障の患部である左前トウ骨をふたたび骨折し、4度目の休養に入った。18日に内村がこの年の天皇賞(秋)を最後に引退し、翌年春から種牡馬入りすることを発表。以後は引退レースとなる秋の天皇賞に目標が切り替えられたが、状態の回復が思わしくなく、天皇賞に間に合わないとの判断から8月27日に松元から引退が正式に発表された。 10月23日(日曜日)には東京競馬場で引退式が挙行された。当日のメイン競走はオープン特別競走であったにもかかわらず、重賞が行われた前週を1万人超上回る、10万6179人のファンが訪れた。馬場では田原が騎乗、ダービー優勝時のゼッケン「20」を着けた姿がファンに披露され、安田隆行(当時調教師に転身)、岡部幸雄も出席した。当日のメイン競走・東京スポーツ杯では皐月賞で2着に退けたシャコーグレイドが3年10か月ぶりの勝利を挙げ、「トウカイテイオーへのはなむけでは」と話題となった。
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6・7歳
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/09 00:12 UTC 版)
6歳時は正月大井開催の新春盃を勝ち、アングロアラブのトモスベビーの参戦が注目された川崎の開設記念でも60キロの斤量を背負いながら快勝した。その後は大井記念を目指して3月にはオープン戦をレコード勝ちするなどしたが、脚部不安を発症し年内は全休となってしまう。それでも7歳時には鉄砲使いで開設記念を連覇し、大井記念3着を挟んで川崎記念も通算2勝目を達成。夏のNTV盃2着を経て、秋には金盃で3着している。
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