67歳とは? わかりやすく解説

6-7歳(1983-84年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/02 10:10 UTC 版)

ハッピープログレス」の記事における「6-7歳(1983-84年)」の解説

6歳となった1983年は、北山特別(ダート1800メートル)で始動敗退後、田原成貴乗り替わって短距離重賞スワンステークス進みハギノカムイオー敗れ3着。6月阪急杯追い込み決め重賞2勝目挙げた12月CBC賞ではニホンピロウイナー敗れた2着となり、連覇とはならなかった。 7歳となった1984年は、始動戦の淀短距離ステークスでは再びニホンピロウイナー敗れマイラーズカップ4着の後、関東遠征敢行3月18日中山競馬場スプリンターズステークスGIII)に飯田明弘とともに1番人気で出走した後方3番手から、直線大外持ち出し追い込み残り200メートル抜け出し後方1馬身4分の3差をつけて重賞3勝目とした。続いて4月22日東京競馬場京王杯スプリングカップGII)にて1番人気で出走出走21頭中、後方5番手に位置し直線大外持ち出し追い上げ開始先に抜け出したドウカンヤシマ、ワールドキング、ダスゲニーをかわし、ドウカンヤシマに4分の3差をつけて重賞連勝、4勝目とした。 この間に、球節の状態が悪くコズミもあったため回避考えられたが、5月13日安田記念GI)に参戦グレード制施行により定量戦GIリニューアルされた初年度であった騎乗予定飯田落馬負傷のため田原騎乗出走22頭のうち重賞勝ち馬16頭が集まり、アサカシルバーに次ぐ2番人気推された。後方待機から第3コーナーで外、直線大外持ち出して追い後方1馬身4分の3差をつけて勝利重賞3連勝で「春の短距離三冠」を果たした関西戻った秋は、スワンステークスGII)、第1回マイルチャンピオンシップGI)に参戦するも、どちらもニホンピロウイナー敗れて3着、2着。この年限りでの引退決まり引退レースとして12月16日CBC賞GIII)に出走ニホンピロウイナー参戦はなかったが、負担重量61キログラム課された。後方待機から直線で外に持ち出して追い上げ先に抜け出したシャダイソフィアをかわし、半馬身差をつけて勝利CBC賞2勝目グレード重賞4勝目JRA重賞6勝目となった1985年1月27日中京競馬場にて1984年CBC賞ゼッケン13」を身に着け引退式開催同じくCBC賞実況録音流れる中、武が騎乗しスタンド前で走り披露した

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6-7歳(1982-1983年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/14 02:49 UTC 版)

アンバーシャダイ」の記事における「6-7歳(1982-1983年)」の解説

6歳となった1982年春は緒戦アメリカジョッキークラブカップ勝利したもの、アルゼンチン共和国杯前年菊花賞ミナガワマンナの2着、初め西下した天皇賞(春)本格化した「無冠の帝王モンテプリンス直線急追したものの、レコード優勝から1馬身余の2着と敗れた。夏にはアメリカアーリントンミリオンへの遠征計画されていたが、競走後脚部不安生じたことにより、秋まで千歳牧場休養入った復帰後は毎日王冠キョウエイプロミスの4着、天皇賞(秋)メジロティターンの5着を経て連覇目指し挑んだ有馬記念では最後直線先頭立ったが、ほぼ最後方の位置から追い込んだヒカリデユールゴール寸前交わされクビ差の2着に終わった7歳となった1983年前年と同じAJCCから始動しミナガワマンナ下して幸先良いスタートを切る。次走のアルゼンチン共和国杯ミナガワマンナホリスキー菊花賞馬2頭と叩き合い演じハナの差でミナガワマンナ先着許した迎えた天皇賞(春)では15頭立ての1番人気に支持された。スタート出遅れたものの、慌てことなく道中は中団の後ろに付けミナガワマンナを見るようにレース進めた第3コーナーから早めにスパートをかけ、直線先頭立ったものの、先行馬に取り付いていたホリスキー抜け出し一旦は先頭になった。けれどもアンバーシャダイ諦めず残り200m過ぎたところから巻き返して再び先頭躍り出て激し競り合いとなり、結局ホリスキーに半馬身差を付けて4度目挑戦待望天皇賞制覇果たし獲得賞金史上初の4億円突破となったその後宝塚記念ファン投票において第1位選出されたが、左前脚に繋靱帯炎発症して休養に入る。秋まで放牧され10月天皇賞(秋)復帰自身5度目天皇賞参戦史上初の春秋制覇目指したが、キョウエイプロミスの3着に終わった。。続くジャパンカップ最後直線伸び切れずアイルランド牝馬スタネーラの6着に敗れた有馬記念ではミナガワマンナホリスキーキョウエイプロミス故障出走せず、当年シンザン以来19年ぶりの三冠馬となったミスターシービーまでも千明牧場意向により出走回避し押し出されるように1番人気に支持された。好位で競馬進めたが、先行するリードホーユー捕らえることができず、後方から来たテュデナムキングにも差されて3着に敗れた。このレース最後に引退したが、この3位入線獲得賞金が4億62054400円となり、これは当時歴代1位であった同年優駿賞最優秀古馬キョウエイプロミス譲ったものの、特別賞として表彰され1984年1月15日には中山メジロティターン合同での引退式が行われた。

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6-7歳(1993-1994年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/03/13 00:16 UTC 版)

フジヤマケンザン」の記事における「6-7歳(1993-1994年)」の解説

休養中1993年5月29日戸山為夫が癌により死去しフジヤマケンザン管理鶴留明雄厩舎移った8月復帰し関屋記念2着、函館記念4着としたのち、9月新規開業した森秀行管理となった厩舎所属での初戦福島民報杯はクビ差の2着となり、この競走最後に小島貞博降板となったこの年その後3戦したが愛知杯5着が最高成績で、6歳シーズン勝利なしという成績終わったその後瞬発力のない「ジリ脚」の特性もあり、翌1994年初戦アメリカジョッキークラブカップ2着、続く中山記念も2着と勝ちきれなかった。中山記念の後には地方競馬主催ダート交流競走帝王賞にも出走し1番人気に支持されたが、最下位16着と敗れている。 6月吾妻小富士オープン制して1年半ぶりの勝利を挙げると、続くBSNオープンも勝ちオープン特別競走を2連勝する。秋の毎日王冠では11頭立て9番人気と低評価だったが、1800メートル従来記録を0秒6更新する日本レコード勝ったネーハイシーザーから0秒2差の2着となった。しかし天皇賞(秋)は9着、ジャパンカップ11着とGI競走では苦戦が続く。12月には前年登録しながら補欠馬に回されていた香港国際カップ出走。春から主戦騎手となっていた蛯名正義鞍上臨んだが、スタート出遅れ後方からのレースとなり、最後直線追い込んだものの、勝ったステートタジ(オーストラリア)から3馬身4分の1差の4着となった蛯名は「馬の調子良かっただけに、出遅れたのが痛かった。そのうえペーススローになってしまい、直線でも内を突くことはできなくて……」「逃がした大きかった」と語った

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6-7歳(2004-05年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/11/23 10:01 UTC 版)

ダンツフレーム」の記事における「6-7歳(2004-05年)」の解説

6歳となった2004年から種牡馬となる予定だったが、屈腱炎治り良かったこととオーナー希望により一転地方競馬競走馬復帰決定荒尾競馬宇都宮徳一厩舎入厩し、同じくして浦和競馬岡田一男厩舎移籍予定された。荒尾での能力検査では、ダート1400メートルを1分31秒5で走破し合格10月20日かんなづき特別(ダート1500メートル)で1年4か月ぶりの復帰し単勝オッズ1.1倍の1番人気に支持され出走。好位から進んだが、JRA2勝の4番人気・シゲルカミナリに5馬身離され、2着となった。 それから予定通り浦和移籍浦和記念統一GII)、東京大賞典統一GI)、川崎記念統一GI)と3戦に出走したが、それぞれ9着、14着、11着に敗れた2005年6月10日地方競馬競走馬登録を抹消し2度目の引退栃木県那須郡塩原市地方競馬教養センターにて乗用馬となった。しかし引退約2か月後の8月28日肺炎発症して7歳死亡地方競馬教養センター内に墓標建てられている。

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6-7歳(1993年-1994年)

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/13 14:15 UTC 版)

トウカイテイオー」の記事における「6-7歳(1993年-1994年)」の解説

1993年1月3日左中臀筋痛めていたことが判明し鹿児島県山下牧場休養に入る。この時水面下では種牡馬となることも模索されていたが、結果的に価格折り合わなかったため現役続行決まった休養開始当初体調立て直す意味もあり、海岸での調教積まれた。3月に帰厩、宝塚記念での復帰目標調整されていたが、競走10日前に左前トウ骨の剥離骨折判明し、再び休養入った10月栗東に帰厩し、この結果復帰戦は1年ぶりのレースとなる有馬記念12月26日)に決まった。しかし、主戦騎手だった岡部はすでに当年菊花賞優勝馬ビワハヤヒデへの騎乗決定していた。そこで馬主内村正則意向によって武豊への騎乗打診され、武は「自分お手馬出走しなければ乗ってもいい」と返答したが、主戦騎手務め二冠牝馬ベガ出走決まって断られたため、最終的に前年騎乗した田原成貴で臨むこととなった競走前、松元は「力を出せる状態にはある」と発言したものの、田原は「順調に来ている馬相手では苦しかも知れない」と不安を口にしていた。しかし、田原当日パドック落ち着き感じたため力を出し切れると感じテレビ解説の席にいた大川慶次郎は「今日トウカイテイオー違いますね。『ああやっとの上走れる』という感じがします喜び満ちたいい返し馬をしていますよ」と発言した大川は後に「この時に受けた感覚は、メジロマックイーンにも、トウショウボーイにも、テンポイントにも、シンボリルドルフにもない、それくらい本当に素晴らしいできだったなと感じました」、「あの返し馬は、本当に素晴らしかったトウカイテイオーサラブレッドとしてレース走れることの無上喜び浸っているようで、実に印象的でした」と振り返っている。 当年出走14頭のうちトウカイテイオーを含む8頭がGI優勝馬という顔触れであった。テイオーは前年有馬記念から14kg増という馬体出走し単勝式ではビワハヤヒデレガシーワールドウイニングチケットに続く4番人気出走したレースが始まると、中盤まで後方待機策をとったトウカイテイオーは、2周目第3コーナーから徐々に進出最後直線に入ると先に抜け出したビワハヤヒデ追走し、ゴール前の競り合い制して馬身差で優勝したゴール瞬間NHK競馬中継実況務めた藤井康生は「トウカイテイオー蘇りました!」、フジテレビ実況中継務めた堺正幸及び関東独立U局実況していた長岡一也は「トウカイテイオー奇跡復活!」と実況田原優勝騎手インタビューにおいて、「この勝利は、日本競馬常識覆したトウカイテイオー、彼自身勝利です。彼を褒めてやって下さい」と涙を流しながら語った馬主内村正則は後に「本当に田原君に乗ってもらってよかった」と振り返っている。前回出走から中364日でのGI勝利長期休養明けGI勝利最長記録となり、現在まで破られていない競走詳細について第38回有馬記念参照のこと)。この勝利評価され、翌1月にはJRA賞特別賞受賞した。 翌1994年現役続行天皇賞(春)目標調教進められていたが、復帰予定大阪杯を右トモ筋肉痛により回避。これを受け宝塚記念目標定めたが、4月14日前回故障患部である左前トウ骨をふたたび骨折し4度目休養入った18日内村この年天皇賞(秋)最後に引退し翌年春から種牡馬入りすることを発表以後引退レースとなる秋の天皇賞目標切り替えられたが、状態の回復思わしくなく、天皇賞間に合わないとの判断から8月27日松元から引退正式に発表された。 10月23日日曜日)には東京競馬場引退式挙行された。当日メイン競走オープン特別競走であったにもかかわらず重賞が行われた前週1万人超上回る10万6179人のファン訪れた馬場では田原騎乗ダービー優勝時のゼッケン20」を着けた姿がファン披露され安田隆行当時調教師転身)、岡部幸雄出席した当日メイン競走東京スポーツ杯では皐月賞で2着に退けたシャコーグレイド3年10か月ぶりの勝利を挙げ、「トウカイテイオーへのはなむけでは」と話題となった

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6・7歳

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/10/09 00:12 UTC 版)

イチカントー」の記事における「6・7歳」の解説

6歳時正月大井開催新春盃を勝ち、アングロアラブトモスベビー参戦注目され川崎開設記念でも60キロ斤量背負いながら快勝したその後大井記念目指し3月にはオープン戦レコード勝ちするなどしたが脚部不安発症し年内全休となってしまう。それでも7歳時には鉄砲使い開設記念連覇し大井記念3着を挟んで川崎記念通算2勝目達成。夏のNTV盃2着を経て秋に金盃で3着している。

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