テンポイント
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テンポイント(1973年4月19日 - 1978年3月5日)は、日本中央競馬会に登録されていた競走馬。
テンポイントの血統 | (血統表の出典)[§ 1] | |||
父系 | ネヴァーセイダイ系(ナスルーラ系) | [§ 2] | ||
父 *コントライト Contrite 1968 鹿毛 | 父の父 Never Say Die1951 栗毛 | Nasrullah | Nearco | |
Mumtaz Begum | ||||
Singing Grass | War Admiral | |||
Borealle | ||||
父の母 Penitence1961 黒鹿毛 | Petition | Fair Trial | ||
Art Paper | ||||
Bootless | The Cobbler | |||
Careless Nora | ||||
母 ワカクモ 1963 鹿毛 | *カバーラップ二世 Cover Up II 1952 黒鹿毛 | Cover Up | Alibhai | |
Bel Amour | ||||
Betty Martin | Hollyrood | |||
Rhoda F. | ||||
母の母 丘高1948 鹿毛 | *セフト Theft | Tetratema | ||
Voleuse | ||||
月丘 | Sir Gallahad | |||
*星若 | ||||
5代内の近親交配 | なし | [§ 3] | ||
出典 |
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注釈
- ^ a b 馬の顔面にある細長い白斑。
- ^ 2頭にグリーングラスを加えたTTGの三つ巴の戦いとして取り上げられることもある。
- ^ a b 競馬雑誌『優駿(増刊号TURF)』が1991年に行った「思い出のレース」を問うアンケート、2003年に行った特集「永遠に語り継がれる『伝説の名レース・名勝負』」ではそれぞれ第1位に選ばれた[84][85]。
- ^ 現・日経新春杯(重賞競走→GII)
- ^ 現表記プラス1歳。馬齢表記は2001年に改められた。(詳細は馬齢を参照のこと)
- ^ 吉田重雄によると、療養中のテンポイントが牛乳を飲むことを知った小川は「馬が牛乳飲むんですか」と言って驚いていたという[7]。
- ^ 馬に騎乗した人が仔馬を追いたてることでさせる運動。
- ^ 高田はこの時の心境について、「超良血というか、優駿を分けてもらえるなんて、期待もしていなかったから驚きました」と回顧している[14]。
- ^ その日の一番時計(最も速い走破タイム)を記録し、しかも調教相手の馬(同じ年のすでに新馬戦を優勝した馬で[18]、厩務員の山田幸守は調教をする前に相手の厩務員から「ついてこれるはずがない」と言われていた)を10馬身引き離した[18][19]。
- ^ 全単勝馬券の発売額に占めるその馬の単勝馬券の発売額の割合。
- ^ 現・りんどう賞(特別競走)
- ^ 現・もみじステークス(特別競走)
- ^ この傾向はその後のレースでもみられた。詳しくは#レースぶりに関する特徴・評価を参照。
- ^ 馬主の高田によると、一緒に観戦していた吉田重雄が「だめだ」と呻くのを聞き、自身も勝利をあきらめたという[24]。
- ^ 阪神3歳ステークスのレース後、シンザンの管理調教師であった武田文吾は「健闘を祈ります。関西馬のためにも」と馬主の高田を激励した[25]。
- ^ 武田文吾は「テンポイントは十年に一頭出るか出ないかの名馬だ。過去に何頭も日本の馬が欧米に遠征して苦杯をなめたが、テンポイントなら、いい競馬をしてくれる。日本の競馬人、ファンの夢をかなえてやったらどうか…」と述べている[30]。
- ^ タニノムーティエの調教師の島崎宏は、「テンポイントはタニノムーティエ以上だ。トンボ帰り遠征をやめて、海外でじっくりと環境になじませてレースに出れば、きっと今までの日本の馬のような負け方はしない。ダービーが終わったら、すぐに遠征させるといいですよ。一年ぐらい行ってくるつもりで…」と述べている[30]。
- ^ フジテレビの競馬中継では「テンポイント、苦しい、苦しい、苦しい!」と実況された。
- ^ スプリングステークスの2着馬メジロサガミに騎乗した横山富雄のレース後のコメント[31]。
- ^ 調教師の尾形藤吉は、トウショウボーイの2戦目のレースとなったつくし賞のレース後に、「えらい馬が出てきた。ひょっとすると西のテンポイント以上の馬かもしれない」と述べている[34]。
- ^ トウショウボーイの調教師の保田隆芳は、3戦目のれんげ賞のレース後に「テンポイントには今の時点ではかなわないかもしれないが、絶対負かせない相手ではないと思う」と述べている[35]。
- ^ なお、このときトウショウボーイは順延される前は強い調教を行わず、順延後再度の順延がなされるか見通しがつかない時期に強い調教を行った。そのため、トウショウボーイ陣営はストライキが妥結するかどうかの情報を把握していたともいわれる[41][42]。馬主の高田久成によるとトウショウボーイの実質的なオーナーであった藤田正明は、馬主会の役員としてこのストライキの団体交渉に臨んでいた[43]。
- ^ 深管(管骨(脚の膝から下にある骨)の裏側)に瘤状の隆起ができる疾病。
- ^ これには調教師の小川の意向が強く作用した。馬主の高田や吉田牧場の吉田重雄はあえてトウショウボーイと戦う必要はないと感じていた[67][68]。
- ^ テンポイントは当時天皇賞(春・秋とも)に存在した「勝ち抜け制度」のため、天皇賞(秋)には出走できず、また当時は八大競走と同格のジャパンカップも未創設で、後に大レースの大幅増加を伴ったグレード制も未導入のため、年内にトウショウボーイと対戦することが可能な八大競走は有馬記念に限られていた。
- ^ 鹿戸はレース前のパドックで気になっていたプレストウコウの鞍上の郷原洋行のところへ向かい、「プレストウコウ怖いなあ」と言ったら、郷原は「いかに僕のが強いといってもまだ4歳、テンポイントとトウショウボーイにまともに走られたらかなわんよ。だから僕の馬には用事ないぞ」と言われ、これで敵はトウショウボーイ1頭に絞れたと回顧している[77]。
- ^ それでも鹿戸は、1周目の直線でトウショウボーイの内にテンポイントを誘導できたことで「活路が見出せた」と振り返っており、鹿戸によると、トウショウボーイに騎乗していた武邦彦は自身の騎乗馬の内側に入ろうとする馬の進路を締める戦法を得意としていたが、このレースでは締め方が完全ではなかった[81]。
- ^ レースの数年後、鹿戸は武邦彦から「あんとき、明ちゃんじゃなかったら、俺、締めてただろうね」と言われたという。作家の木村幸治は武邦彦のこの発言の真意について、「勝ちを譲ったという意味ではない。……実力のままの勝負をし、テンポイントと鹿戸明をフェアに負かしたかったのである」と解釈している[81]。武邦彦はこのレースを、「トウショウボーイは、完璧なスタートをきって、終始自分のペースで行き、直線でも十分脚はありました」とした上で、「テンポイントはそのトウショウボーイに併せてきて、それで抜き去ったんだから、本当に強かったんだと思いますよ。……僕も、トウショウボーイの力をすべて出しきったと信じているんで、このレースは負けても、なんの悔いもなかった」と振り返っている[82]。
- ^ ライターの阿部珠樹は、向こう正面に入っても競り合いを続ける2頭を見て「共倒れになるかもしれない」と感じたという[83]。
- ^ 渡辺敬一郎はこのレースを、「昭和52年。……極端なことを言えば、2頭の競走生命のすべてが暮れの有馬記念に収斂されていったと言っても過言ではない」と評している[86]。
- ^ テンポイント以降では1985年にシンボリルドルフ、2000年にテイエムオペラオー、2018年にアーモンドアイが満票で年度代表馬に選出されている。
- ^ 目標としてイギリスのキングジョージ6世&クイーンエリザベスステークス、フランスの凱旋門賞、アメリカのワシントンD.C.インターナショナルなどが挙げられた[75]。
- ^ 高田は後にこのローテーションについて、「あの頃の私は、種馬にするという楽しみ方も知らなかったですからねえ。イギリス、フランス、アメリカへと、まあ水戸黄門漫遊記みたいな夢を抱いていたんです」と回顧している[91]。
- ^ 特にビクトリアシチーの競りかけは執拗で、吉田牧場の吉田晴雄は同馬に騎乗した福永洋一を「海外遠征を前にした壮行レースだっただけに、なぜ、もっと気持ちのいいレースをさせてあげなかったのか」と批判した[98]。
- ^ 競馬通の記者遠山彰と池北義夫が中心となってトップ記事にした[107]。
- ^ 構成は作家の寺山修司、番組監修は詩人の志摩直人がそれぞれ担当し、緒形拳がナレーションを務めた。
- ^ 1977年の有馬記念における杉本の実況は競馬ファンによく知られているが、これはこのドキュメンタリー番組用に収録されたものであり、テレビ中継ではフジテレビのアナウンサー(盛山毅)が実況を担当していた[135]。杉本はこの有馬記念での実況において、後に宝塚記念での自身の実況における代名詞となった「あなたの、そして私の夢が走っています」というフレーズをこのレースで初めて用いたと述べている[136][137]が、実際には前年の宝塚記念(優勝馬フジノパーシア)で既にこのフレーズを用いて実況を行っている。
- ^ トウショウボーイは、父内国産馬初の三冠馬ミスターシービーを送り出した種牡馬実績が決め手となり、顕彰馬選定初年度に選定となっている[143]。
- ^ 馬主の高田は、東京4歳ステークスのパドックにおいて陽の光がテンポイントの馬体にあたって黄金色に輝き、それを見たある写真家があまりの美しさに見惚れてシャッターを切るのを忘れてしまったという逸話を明かしている[146]。
- ^ 杉本清はテンポイントの海外遠征のプランに備えてドキュメンタリーを製作しようという企画によって行うことになった第22回有馬記念での実況において[147]、「栗毛が、栗毛が冬の陽射しに光っています」というフレーズを残している[148]。
- ^ 調教師の小川は「美しい尾花栗毛と額の流星が印象的なサラブレッドであり、気品という言葉はテンポイントのためにある言葉だと思った。」と回顧している[149]。
- ^ 主戦騎手の鹿戸は「サラブレッドは、人間がつくったもっとも美しい芸術、といわれるけど、テンポイントはそれをそのまま形にしたような、サラブレッドだった」と述べている[150]。
- ^ テンポイントが出走した競走で騎乗したことのある郷原洋行は「鳥肌が立つような気品があった」と述べている[151]。
- ^ 競馬評論家の石川ワタルは「テンポイントほど強くて美しい馬は、これまで見たことがない。テンポイントの美しさには、しかも神が嫉妬するほどの気品があった」と評している[152]。
- ^ 詩人の志摩直人は「テンポイントはサラブレッドの使者だった」と述べ[14]、テンポイントの海外遠征が発表されたときには、「これだけ美しい馬が日本にもいる、ということを世界に見せてあげたい」と発言した[153]。
- ^ 小説家の古井由吉は、「貴女にとってこれまででいちばん美しい男性は誰かとたずねられて、テンポイント、とつい答えた人もいる」と述べている[154]。
- ^ ライターの阿部珠樹は、4歳時の秋にテンポイントをはじめてみた際に「赤さ」に驚いたといい、「言うまでもなく栗毛だが、秋の府中の陽射しの中で、真っ赤に燃え上がっているように見えた。あんな鮮やかな栗毛、その後、ずいぶん多くの栗毛を見てきたが、一度も出会ったことがない」と述べている[155]。
- ^ 調教師の小川は「3歳から4歳の頃はどちらかといえば華奢な身体付きで、女性的なところもあった」と述べている[149]。
- ^ 馬主の高田は小川厩舎に入厩した当初のテンポイントとの初対面での印象について、「まだ、身体が細くて、女馬みたいな感じだった」と述べている[157]。
- ^ トウショウボーイの主戦騎手でテンポイントに騎乗した経験もある武邦彦は「4歳春から5歳秋にかけて、これほど成長した馬は見たことがない」と評した[160]。
- ^ 河内洋は「早熟に見えて、実は古馬になっても、成長し続けていたのは名馬の証明」と評した[151]。
- ^ 寺山修司はこれについて、「ひ弱なイメージから次第に訓練を積んでいったスポーツマンのような肉体へと変貌をとげていった」と評している[161]。なお、寺山は第24回有馬記念の前にテンポイントとトウショウボーイの比較を行い、「肉体美」の面ではテンポイントを『ボクサー的肉体美』、トウショウボーイを『レスラー的肉体美』と両馬を言い表している[142][162]。
- ^ 作家の古井由吉は「それまでは紅顔の美少年の面影を残していたのが、今や押しも押されもせぬ美丈夫である。胸前や後肢の豊かさ、その溢れる精気、見ていると同性ながら恥しくなるほどのものだった」と回顧している[154]。
- ^ 横尾一彦は、「5歳秋になってのテンポイントはまさに芸術品の強さだった。いい意味で姿形がこれほど変わっていった馬は珍しい」と評している[88]。
- ^ 阿部珠樹は「最初の登場の時は青白い細面の少年だった。それがつぎの年にはたくましい胸板の青年になっていた」とし、「その成長の物語も語り伝えたいものだ」と述べている[155]。
- ^ 馬主の高田は、1986年に杉本清からシンボリルドルフと対決していたらどうだったかと問われた際に「4歳の時ならあきらかに負けましたという感じですが、5歳になって500kgに達してからなら、シンボリルドルフといい勝負だと思いますよ」と述べている[14]。
- ^ 一般的な競走馬の一分間の心拍数は27だが、テンポイントは18だった[163]。
- ^ デビュー前のテンポイントについて、吉田牧場の関係者は前述のように人に逆らわない利口さをもっていたとしている。さらに追い運動の時には人に追い立てられない限り馬群の後を走り力を温存する賢さも持ち合わせていたとしている[145][163]。
- ^ 闘病中のテンポイントは体を動かさずにじっとしており、チェーンソーでギプスを切断する際にもまったく動じなかった。厩務員の山田はこの時の様子を「今、自分が何をしてもらっているのかを知っているかのよう」で、獣医師も「この馬は凄い」と感心するほどだったと述べている[9][165]。
- ^ 野平祐二は東京4歳ステークスでのテンポイントのパドックでの姿を見て、「いやあ、驚いた。まるで栗東の地元にいるときのように悠然と歩いている」と述べている[169]。
- ^ 鹿戸は「調教でも他の騎手が乗ると、ものすごくおとなしいが、私が乗ると、闘争心がムキ出しになる。レースとそうでないときの区別がわかる馬だった」と述べている[75]。
- ^ 一般的な競走馬が200m走るのに30完歩以上かかるのに対し、テンポイントは25完歩で走ることができた[75]。
- ^ 後に「ふつうの馬は1ハロン27から32。トウショウボーイでも26か27完歩だったと思う。海外の馬場は日本よりも柔らかい。そこを完歩数の多いハイピッチ走法では心臓や肺に負担がかかりすぎて不利だ。しかし、25完歩で1ハロンを走るテンポイントなら勝負になるのではないかと思ったんです」と述べている[75]。
- ^ 鹿戸は「絶対に相手には負けないぞという気迫がもの凄かった」と評している[78]。
- ^ 保田はテンポイントの勝負強さ、闘争心が非常に優れていたと述べ、トウショウボーイが負けるくらいのものをもっていたと評している[63]。
- ^ 渡辺敬一郎はこれについて、「こういうファンの熱烈な歓迎は、関西という風土がはぐくむ、独特の気質といっていいかもしれない。それはプロ野球の阪神タイガースにたいする応援と、同次元のものだろう」と評している[181]。
- ^ 対象はJRA賞の投票委員、引退した中央競馬の調教師、競走馬生産者、JRA職員OB、競馬ファンの著名人。
- ^ はじめにこの愛称を用いたのは志摩直人と杉本清だったといわれる[153]。
- ^ TTGの中でもとりわけトウショウボーイとテンポイントのライバル関係をTTと呼ぶ[38][196]。
- ^ 厩務員の山田幸守は東京4歳ステークスに出走するために東京競馬場へ移送されたテンポイントに同行していたことからトウショウボーイのデビュー戦を東京競馬場で見ていたが、華奢なテンポイントに比べて幅のある馬体を見て危機感を覚えた[197]。
- ^ 山田と同じく遠征に同行し、トウショウボーイのデビュー戦でタイエンジェルに騎乗していた鹿戸明はトウショウボーイの馬体や走りを見て「この馬はただものではない」と感じ[47][198]、「これがテンポイントの最大の敵になるんじゃないか」と予感したという[199]。トウショウボーイの2戦目のつくし賞は親しかった日刊スポーツの記者に報告を頼み、その記者からは「鹿戸さん、この馬はテンポイントの敵になる馬ですよ」と伝えられたという[200]。
- ^ 1976年の菊花賞ではトウショウボーイに先着したもののグリーングラスの2着に敗れた。
- ^ 調教師の小川は第18回宝塚記念で敗れた際には「打倒トウショウボーイを果たすまでは夜も眠れない」というコメントを残した[201]。
- ^ 第22回有馬記念のレースを前に保田隆芳は「テンポイントが出るなら出よう。決着をつけよう」と述べ[72]、主戦騎手の鹿戸明は「ここで負けたらテンポイントは永遠にトウショウボーイの下馬になってしまう」と敵愾心を露わにした[202][203][204]。鹿戸は後に「トウショウボーイが引退する前に一回負かしとかんかったら、互角と認められない」[205]、「競り合って、たとえ両方ともが馬群に沈んでも、絶対に負けたくなかった」[206]という思いがあったと回顧している。レース後には「今は宿願を果たしてよかったという気持ちです」とコメントした[88]。
- ^ 当時、阪神競馬場の直線コースには坂がなかった。
- ^ 当時のクラシックは関東馬が優勢で「東高西低」といわれた。
- ^ 当時トウショウボーイを初めとする関東馬は、直線に坂のある東京競馬場・中山競馬場で調教されていた。
- ^ 同様の例として3着のテンポイントに焦点を当て、「今日はこれで十分だ」と実況した1976年の京都大賞典[218][221][222]、ゴール前で「それいけテンポイント、ムチなどいらぬ、押せ!」と実況した1976年の菊花賞[216][218][223]、「テンポイント、天皇賞に王手」と実況した1977年の鳴尾記念[224]、「これが夢にまで見た栄光のゴールだ」と実況した1977年の天皇賞(春)[225][226]などがある[227]。
- ^ ただしこのような実況は批判もあり、杉本曰く京都大賞典の実況は関西テレビのディレクターから注意されただけでなく[14][218]、一部の熱心な馬券ファンから「連にも絡んでいないのに十分とは、馬券を買ったファンを無視している」と言われ[222]、菊花賞での実況は同業者から「テンポイントが勝っていれば名実況になったかもしれないが、負けてしまっては失敗の実況」と批判され、グリーングラスのファンが作る会報誌でも槍玉に挙げられたという[228]。しかし、京都大賞典での実況は吉田晴雄の夫人から「数あるあなたの実況で、このレースが一番好きです。思わず涙がこぼれました」と言われたことで、"忘れられないレースになった"と振り返っている[222]。
- ^ 杉本はB面『テンポイント物語』のナレーションをすることになった。
- ^ なお、このレコードが完成した頃にテンポイントが4歳初戦の東京4歳ステークスを迎え、負けてしまっては困るとポリドールのスタッフが応援に出向き、パドックの柵に応援の横断幕を拡げた。これが競馬における横断幕の初の事例である[230][232]。第22回有馬記念のパドックでは「有馬を制して世界へ羽ばたけ」、「有馬の歴史に流星の伝説を刻め、われらが使者テンポイント」、「夢よ今一度、行けテンポイント」と書かれた横断幕が張られ[233]、松永郁子は、パドックに横断幕を張り出す習慣を作ったのはテンポイントであると述べている[234]。
- ^ 杉本は「正直いってテンポイントをこのレースに使う意味がよくわかりませんでした」と述べ、レースの当日には馬主の高田に対してなぜ出走させたのかと聞きにいったほどだったと回顧している[236][237]。
出典
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