第10回有馬記念とは? わかりやすく解説

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第10回有馬記念

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2024/03/12 03:07 UTC 版)

第10回有馬記念(だい10かいありまきねん、コース、外回り、2600メートル)は、1965年12月26日中山競馬場で施行された競馬重賞競走である。

馬齢は全て旧表記(数え年)にて表記

レース施行時の状況

1965年の第10回、前年に戦後初の牡馬クラシック三冠を制し、その後も天皇賞・春は回避したものの、宝塚記念天皇賞・秋を制し四冠馬[1]となったシンザンは、ファン投票1位で有馬記念に駒を進めてきた。前週のオープン競走でクリデイの2着に敗れての連闘だった。有馬記念の前にシンザンをレースに出走させることを快く思っていなかった同馬の主戦騎手栗田勝は、武田文吾調教師と揉め、自棄酒によって騎乗依頼をすっぽかしたことにより騎乗停止処分を受け、有馬記念でシンザン騎乗が不可能となってしまう。陣営は中山競馬場ということもあり、3年連続リーディングジョッキーになっていた関東の闘将・加賀武見に依頼するが、加賀は「シンザンに乗るよりもシンザンを倒したい」という考えから依頼を断り、急遽有馬参戦が決まっていたミハルカスに騎乗することとなった。結局ほかの関東の有力騎手とも折り合いがつかず、自厩舎の松本善登がシンザンに騎乗することになった。そのことから「無敵シンザンに死角あり」とマスコミから騒がれたが、当日は単勝オッズ1.1倍の圧倒的1番人気だった。

こうした状況でシンザンに挑む馬たちも見劣りしない。前走秋の天皇賞でシンザンの2着に敗れるまで7連勝を果たしていた関東の雄・ハクズイコウ。同じく前走秋の天皇賞で大逃げを打って3着に粘っているミハルカス。前年春の天皇賞と宝塚記念を制し、本年はやや衰えをみせたものの前走の京都記念を勝っているヒカルポーラ。本年は精彩を欠く走りが目立っていたが、前年の有馬記念優勝馬であり、連覇がかかるヤマトキヨウダイ。レース自体は8頭立てと少頭数[2]ではあったが、このような見ごたえのあるメンバーが揃っていた。

出走馬と枠順

天候:曇、芝:稍重
枠番 馬番 競走馬名 斤量 騎手 オッズ 調教師
1 1 ヒカルポーラ 牡7 55 高橋成忠 4番人気 佐藤勇
2 2 クリデイ 牡4 54 森安重勝 7番人気 尾形藤吉
3 3 ブルタカチホ 牡5 56 大崎昭一 6番人気 柴田寛
4 4 シンザン 牡5 56 松本善登 1.1(1番人気) 武田文吾
5 5 ハクズイコウ 牡5 56 保田隆芳 2番人気 尾形藤吉
6 6 ミハルカス 牡6 55 加賀武見 3番人気 小西喜蔵
7 7 ウメノチカラ 牡5 56 森安弘明 8番人気 古賀嘉蔵
8 8 ヤマトキヨウダイ 牡6 55 野平祐二 5番人気 稲葉幸夫

レース展開

レースはシンザンがいつものように後方中団から進めてきたが、最後の第4コーナーでミハルカスが逸走気味に大外へ膨れた。これはシンザンを負かすために加賀が考えた秘策で、末脚の切れ味が武器のシンザンに馬場の荒れている内側を通らせてその切れを鈍らせようと取った作戦だった。しかし、そんな加賀の思惑とは裏腹に松本はシンザンをミハルカスのさらに外、馬場の外ラチ沿いへと導いた。そのためTV中継のカメラの視界から消えた。しかし次にTVカメラがシンザンの姿を捉えたとき、シンザンは外ラチ沿いから中山の坂を力強く駆け上がり、先頭でゴール板を駆け抜けていた。

レース結果

競走成績は以下のとおり[3]

着順 枠番 馬番 競走馬名 タイム 着差
1 4 4 シンザン 2:47.2
2 6 6 ミハルカス 2:47.5 1 3/4馬身
3 3 3 ブルタカチホ 2:47.6 1/2馬身
4 5 5 ハクズイコウ 2:47.9 1 3/4馬身
5 8 8 ヤマトキヨウダイ 2:48.0 1/2馬身
6 1 1 ヒカルポーラ 2:48.7 4馬身
7 2 2 クリデイ 2:49.0 2馬身
8 7 7 ウメノチカラ 2:49.1 クビ

データ

達成された記録

  • シンザンは八大競走(当時)のうち、牝馬限定戦(桜花賞優駿牝馬)と春の天皇賞[4]をのぞくすべてのレースを制覇し、日本競馬史上初の五冠馬となった。
  • 当時オープン競走であった宝塚記念にも勝利しており、この有馬記念と併せて史上2頭目のグランプリ春秋連覇達成[5]、騎手が乗り代わっての達成は史上初[6]
  • グレード制導入以前に東京[7]京都[8]阪神[9]・中山の4競馬場でGⅠ級競走を制したのは、シンザンが唯一である[10]
  • 武田調教師はこれで史上2人目[12]の八大競走完全制覇を達成。これは2023年現在も2人しか達成していない記録である

レースにまつわるエピソード

シンザンは有馬記念の1週間前にもオープン戦に出走して2着に敗れている。これには調教師の武田文吾がレースを調教代わりに使う[13]という考えがあってのことだったが、主戦騎手であった栗田勝がこれに反発し、このオープン戦への騎乗をボイコット。その結果、オープン戦はそれまでオープン戦に3回騎乗していた弟弟子・武田博が、有馬記念は栗田の兄弟子・松本善登が騎乗することとなった。

脚注

  1. ^ 宝塚記念は八大競走に含まれないため、カウントされない。
  2. ^ ほかに第22回(1977年)の有馬記念も8頭立て。なお有馬記念出走馬最少記録は第16回(1971年)の6頭立て(有馬記念の歴史参照)。
  3. ^ 競走成績 第10回 有馬記念”. データファイル. 日本中央競馬会. 2012年1月23日閲覧。
  4. ^ 当時の天皇賞は勝ち抜け制だったため、春秋両方を勝つことは不可能だった。
  5. ^ シンザン以前にはリユウフオーレルが達成
  6. ^ 後にイナリワンも達成、2023年現在まで乗り替わりでの達成はこの2頭のみ
  7. ^ 皐月賞東京優駿天皇賞(秋)
  8. ^ 菊花賞
  9. ^ 宝塚記念
  10. ^ グレード制導入後は、2024年までにテイエムオペラオーオルフェーヴルジェンティルドンナキタサンブラックの4頭が達成している
  11. ^ シンザン以外でGⅠ級競走に3度以上出走して全勝している日本馬には、クリフジトキノミノル等が挙げられる
  12. ^ 尾形藤吉に次ぐ
  13. ^ シンザンがクラシック参戦した年(1964年)は、皐月賞が東京競馬場で開催されたため、シンザンは中山競馬場を走った経験がなかった。

外部リンク


第10回有馬記念

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/21 08:18 UTC 版)

ミハルカス」の記事における「第10回有馬記念」の解説

天皇賞(秋)の後、ミハルカス陣営は第10回有馬記念への出走決めた天皇賞終了時翌春戴冠向けて充電当てたかったため、参加予定はなく加賀フリーであった。その為、有馬記念前週シンザン主戦騎手であった栗田勝シンザン管理方針を巡る武田との対立から調整ルーム抜け出して酒をあおり、急性の疾患急性胃腸カタルまたは急性アルコール中毒)を起こして病院搬送されるという不祥事起こした際、シンザン管理調教師である武田文吾栗田シンザンから降板させることを決定し加賀師匠である阿部正太郎を介して加賀代役依頼する事となった。ところが、この話を巡ってミハルカス管理調教師である小西阿部との間に対立生じ小西休養予定変更しミハルカス有馬出走決め加賀シンザン騎乗よりもシンザン打倒選んだことで話は頓挫結局シンザンには栗田兄弟子である松本善登騎乗する事となった。 有馬記念当日内側馬場状態悪く加賀ミハルカス外側誘導して逃げた。第4コーナー加賀は「直線中途半端じゃない外に出よう」と決断し、「ほとんど斜行と言ってもいいくらいの角度」でミハルカス外側誘導した。ここでシンザンミハルカスのさらに外へ進路をとりつつ加速した加賀にはシンザンミハルカスよりも内側を通るという予測があり、それによって馬場状態の悪い部分走ったシンザン体力幾分消耗することを期待していたが、シンザン動き予想外のものであった振り返っている。この時、観客席からは2頭が視界から消えたように見えた。とくにシンザンについてはラチ沿いの溝に落ちたではないかという観測生まれ観客騒然となった。シンザンの姿はテレビカメラでもとらえられなくなり、「消えた」と実況された。しかし加賀によると実際にはこの時、ミハルカスの外にはおよそ2頭分スペース残されており、シンザンが溝に落下することは絶対にあり得なかったという。直線ミハルカスシンザン交わされ2着に敗れた

※この「第10回有馬記念」の解説は、「ミハルカス」の解説の一部です。
「第10回有馬記念」を含む「ミハルカス」の記事については、「ミハルカス」の概要を参照ください。

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