ワシントンDCインターナショナル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2025/02/19 08:25 UTC 版)
ワシントンDCインターナショナル Washington, D.C. International |
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競馬場 | ローレルパーク競馬場 |
創設 | 1952年 |
距離 | 芝1マイル1/4(10ハロン) |
格付け | G1(廃止時) |
出走条件 | サラブレッド3歳上 |
ワシントンDCインターナショナル(Washington, D.C. International)とは、1952年から1994年まで行われていたアメリカ合衆国の競馬の国際競走(平地競走)である。
日本ではワシントンDC国際とも訳され、インビテーショナルレース(招待競走)であったことからワシントンDC国際招待などと表記される場合もあった。ステークスと表記されることがあるが、少なくとも創設時から1968年まではステークスではない[1]。以下は記事名の表記に統一して説明する。
概要
1952年、ジョン・D・シャピーロによって、アメリカ合衆国メリーランド州のローレル競馬場(現ローレルパーク競馬場)にサラブレッド3歳以上の芝12ハロン(約2414メートル)の出走条件で創設された競走である。当時のアメリカ合衆国における唯一の国際招待競走であり、単に「インターナショナル」といえばこの競走を意味していた[† 1]。最盛期にはアメリカ国内はもとよりヨーロッパや日本、冷戦中のソビエト連邦からも強豪が集まった[3]。
世界から出走馬を招待する為、第1回の開催時にはスターティングゲートの使用が一般化していたアメリカの競馬場でありながら、この競走のみゲートを使用せずにスターターの振り下ろす旗によって発走していた。その後、バリヤー式発馬機よる発走を挟み、最終的にスターティングゲートでの発走が行われるようになった。[要出典]
創設された年にイギリス馬ウィルウィンが勝利したこともあり、1954年にはエリザベス2世、アリ・ハーン、ウィンストン・チャーチル、ギー・ド・ロートシルト男爵、ポール・メロンといった有名な馬主から競走馬が送り込まれるようになった[4]。
1980年代にはニューヨーク州アケダクト競馬場やベルモントパーク競馬場で行われるターフクラシック(当時)[† 2]、カナダ・オンタリオ州ウッドバイン競馬場で行われるロスマンズインターナショナルステークス(当時)と本競走の全てで優勝した競走馬には100万ドルのボーナスが支払われた。1983年にオールアロングが全競走を制覇し、ボーナスを獲得している[3]。
ヨーロッパとアメリカにおける秋の重要な競走となったが、1981年に後発の国際競走となるジャパンカップとアーリントンミリオン、1984年の同時期に競馬の祭典ブリーダーズカップが創設されたことで相対的に衰微した[3]。同年12月にローレル競馬場を買い取ったフランク・J・ドゥフランシスは、観客動員や売上が落ちる中、1987年から本競走がメインとなる「インターナショナルターフフェスティバル」を創設する[† 3]。翌1988年にはバドワイザーをスポンサーとし、競走名をバドワイザーインターナショナルに改称した[† 4][6]。
1993年にはブリーダーズカップの前哨戦となるよう2週間前に行なうこととし、本競走はワシントンDCインターナショナルマイルとなり、その名のとおり施行距離もマイルに変わった[† 5]。1994年には、競走名を創設時に、施行距離を10ハロンに戻される[8]。このころにはメリーランドの競馬関係者に時代遅れの遺物と見なされており[† 6]、翌年には中止が決定された[4]。
2005年にコロニアルダウンズ競馬場で行われていたコロニアルターフカップが2014年のコロニアルダウンズ競馬場閉鎖に伴い、2015年からローレルパーク競馬場でコモンウェルスターフカップとして引き継がれ、2017年から本競走にちなんだボルチモアワシントンインターナショナルターフカップと名称を変更し、後継競走に位置づけけられることとなった[3]。
歴史
- 1952年 出走条件3歳以上の芝12ハロン(約2400メートル)で施行される国際招待競走として創設。
- 1958年 1位入線のテューダーエラが2着に降着、セーラーズガイドが繰り上がり優勝。
- 1959年-1960年 ボールドイーグルが連覇。
- 1961年-1963年 ケルソが3年連続で2着に入る。
- 1964年 ケルソが当時のアメリカ芝12ハロンレコードで優勝。
- 1973年 グレード制開始に伴い、G1競走となる。
- 1986年 施行距離を芝10ハロン(約2012メートル)に短縮。
- 1988年 バドワイザー社がスポンサーになり、バドワイザーインターナショナルに改名[6]。
- 1993年 施行距離が芝8ハロン(約1608メートル)に短縮し、ワシントンDCインターナショナルマイルの名で実施[7]。
- 1994年 施行距離が芝10ハロンに戻され、ワシントンDCインターナショナルの名で実施[8]。
- 1995年 競走の中止が決定される。
歴代優勝馬
回数 | 施行日 | 調教国・優勝馬 | 性齢 | タイム | 優勝騎手 | 管理調教師 |
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第1回 | 1952年 | ![]() |
牡4 | 2:30 4/5 | M.Mercer | J.Waugh |
第2回 | 1953年 | ![]() |
牡4 | 2:36 0/5 | C.Smirke | G.Bridgland |
第3回 | 1954年 | ![]() |
牡3 | 2:47 4/5 | E.Arcaro | S.Veitch |
第4回 | 1955年 | ![]() |
牡4 | 2:36 1/5 | R.Bustamente | J.Labelle |
第5回 | 1956年 | ![]() |
牡3 | 2:39 0/5 | G.Chancelier | G.Pelet |
第6回 | 1957年 | ![]() |
牡6 | 2:34 3/5 | S.Boulmetis | H.Trotsek |
第7回 | 1958年 | ![]() |
牡6 | 2:33 1/5 | H.Grant | J.B.Bond |
第8回 | 1959年11月11日 | ![]() |
牡4 | 2:28 0/5 | M.Ycaza | W.Stephens |
第9回 | 1960年11月11日 | ![]() |
牡5 | 2:33 0/5 | M.Ycaza | W.Stephens |
第10回 | 1961年11月11日 | ![]() |
牡4 | 2:26 1/5 | J.Longden | P.Parker |
第11回 | 1962年11月12日 | ![]() |
牡4 | 2:28 1/5 | Y.Saint-Martin | F.Mathet |
第12回 | 1963年11月11日 | ![]() |
牡4 | 2:27 2/5 | W.Chambers | F.A.Bonsal |
第13回 | 1964年11月11日 | ![]() |
騸7 | 2:23 4/5 | I.Valenzuela | C.Hanford |
第14回 | 1965年11月11日 | ![]() |
牡3 | 2:28 2/5 | J.Deforge | G.Watson |
第15回 | 1966年11月11日 | ![]() |
牡3 | 2:28 4/5 | J.Deforge | J.Lieux |
第16回 | 1967年11月11日 | ![]() |
騸3 | 2:27 0/5 | M.Ycaza | E.Burch |
第17回 | 1968年11月11日 | ![]() |
牡3 | 2:28 4/5 | L.Piggott | V.O'Brien |
第18回 | 1969年11月11日 | ![]() |
牡4 | 2:27 0/5 | L.Piggott | B.van Cutsem |
第19回 | 1970年11月11日 | ![]() |
騸6 | 2:42 4/5 | J.Velasquez | E.Burch |
第20回 | 1971年10月25日 | ![]() |
牡3 | 2:50 3/5 | R.Woodhouse | E.Burch |
第21回 | 1972年11月11日 | ![]() |
牡4 | 2:38 4/5 | B.Baeza | T.Kelly |
第22回 | 1973年11月10日 | ![]() |
牝3 | 2:31 4/5 | B.Pyers | M.Zilber |
第23回 | 1974年11月9日 | ![]() |
騸4 | 2:29 3/5 | M.Philipperon | J.Cunnington Jr. |
第24回 | 1975年11月8日 | ![]() |
牝3 | 2:31 1/5 | S.Hawley | M.Zilber |
第25回 | 1976年11月6日 | ![]() |
牡3 | 2:46 1/5 | S.Hawley | M.Zilber |
第26回 | 1977年11月5日 | ![]() |
騸3 | 2:42 1/5 | S.Cauthen | M.Kay |
第27回 | 1978年11月4日 | ![]() |
牡3 | 2:27 0/5 | J.Cruguet | S.Schulhofer |
第28回 | 1979年11月10日 | ![]() |
騸5 | 2:51 0/5 | J.Velasquez | J.Gaver Jr. |
第29回 | 1980年11月8日 | ![]() |
牡3 | 2:30 1/5 | L.Piggott | M.Zilber |
第30回 | 1981年11月7日 | ![]() |
牡4 | 2:31 1/5 | A.Lequeux | C.Whittingham |
第31回 | 1982年11月6日 | ![]() |
牝4 | 2:31 0/5 | C.Asmussen | F.Boutin |
第32回 | 1983年11月12日 | ![]() |
牝4 | 2:35 0/5 | W.Swinburn | P.Biancone |
第33回 | 1984年10月20日 | ![]() |
牡3 | 2:27 1/5 | C.Asmussen | F.Boutin |
第34回 | 1985年11月16日 | ![]() |
牡4 | 2:35 3/5 | D.MacBeth | S.McGaughey |
第35回 | 1986年11月15日 | ![]() |
牡4 | 2:09 0/5 | R.Davis | H.Tesher |
第36回 | 1987年10月31日 | ![]() |
牡3 | 2:02 4/5 | L.Pincay Jr. | R.Collet |
第37回 | 1988年10月23日 | ![]() |
牡3 | 2:03 0/5 | A.Cordero Jr. | J.Veitch |
第38回 | 1989年10月22日 | ![]() |
牡3 | 2:07 3/5 | R.Douglas | E.Aspurua Jr. |
第39回 | 1990年10月21日 | ![]() |
牡4 | 2:01 1/5 | L.Pincay Jr. | D.Vienna |
第40回 | 1991年10月19日 | ![]() |
牝4 | 2:06 4/5 | E.Prado | D.Smaga |
第41回 | 1992年10月17日 | ![]() |
牡5 | 2:01 2/5 | A.Munro | P.Cole |
第42回 | 1993年10月23日 | ![]() |
牡5 | 1:38 0/5 | J.Cruguet | W.Freeman |
第43回 | 1994年10月15日 | ![]() |
牡5 | 1:59.63 | P.Day | B.Mott |
日本調教馬の成績
脚注
注釈
- ^ アメリカの国際競走としては、インターナショナルスペシャルが行なわれた後、本競走より前に1947年からエンパイアシティゴールドカップが創設されていたが、外国馬をうまく集められず短命に終わった[2]。
- ^ 現在はベルモントパークでジョーハーシュ・ターフクラシック招待の名で行なわれているが、オールアロングが優勝した1983年まではアケダクトで行なわれていた。
- ^ 創設時は同地域の2歳重賞ローレルフューチュリティとセリマステークスを芝に変え同日に行なわれた[5]。
- ^ ターフフェスティバルもオールアロングステークスと芝6ハロンの短距離重賞ローレルダッシュを加え、5つの重賞を土日の2日間で行なうこととなる。
- ^ ターフに対しては、ローレルターフカップを施行することで対応した。なお、2つの2歳馬重賞については一週前に移動し、ターフフェスティバルは4競走に縮小している[7]
- ^ 本競走当日の観客動員や売上が、同じ競馬場で行なわれるメリーランドミリオンを下回っている[8]。
出典
- ^ クレーグ1968(佐藤訳注)、90頁
- ^ ブラッドホース2006、76頁
- ^ a b c d サラブレッドレーシングコメンタリー、2022-09-04
- ^ a b ボルチモア・サン、1995-01-24
- ^ ニューヨーク・タイムズ、1987-11-02
- ^ a b ワシントン・ポスト、1988-03-15
- ^ a b ボルチモア・サン、1993-04-28
- ^ a b c ボルチモア・サン、1994-10-12
各回競走結果の出典
- “Washington, D. C. International Stakes (Gr. 1)” (英語). Equibase. 2024年5月19日閲覧。
参考文献
- Peddicord, Ross (1995年1月24日). “International put on hold for one year” (英語). ボルチモア・サン. 2013年8月19日閲覧。
- Crist, Steven (1987年11月2日). “HORSE RACING; Europeans Sweep U.S. in Festival” (英語). ニューヨーク・タイムズ. 2013年8月19日閲覧。
- Perrone, Vinnie (1988年5月15日). “International Signs A Sponsor; Laurel Expands Turf Festival” (英語). ワシントン・ポスト. 2016年4月9日時点のオリジナルよりアーカイブ。2013年8月19日閲覧。
- Baker, Kent (1994年4月28日). “Changes made in International Turf Festival” (英語). ボルチモア・サン. 2013年8月19日閲覧。
- Peddicord, Ross (1994年10月12日). “International evokes turf war” (英語). ボルチモア・サン. 2013年8月19日閲覧。
- “Washington DC International: remembering the race that changed the world” (英語). Thoroughbred Racing Commentary (2022年9月4日). 2024年5月12日閲覧。
- 出版物
- デニス・クレーグ 著、佐藤正人 訳『競馬 サラブレッドの生産および英国競馬小史』日本中央競馬会、1968年。
- Blood-Horse Publications (2006). “The Farst Washington, D.C., International”. Horse Racing's Top 100 Moments. Eclipse Press. pp. 74-77. ISBN 978-1-58150-139-1 2013年8月18日閲覧。
ワシントンDCインターナショナル
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:02 UTC 版)
「日本調教馬の日本国外への遠征」の記事における「ワシントンDCインターナショナル」の解説
日本からも8頭で延べ9回出走したものの、スピードシンボリの5着が最高であった。 回施行日馬名英語馬名騎手調教師着順出典第11回 1962年11月12日 タカマガハラ Takamagahara 野平好男 小西喜蔵 10着 第13回 1964年11月11日 リユウフオーレル Ryu Forel 宮本悳 橋本正晴 8着 第16回 1967年11月11日 スピードシンボリ Speed Symboli 野平祐二 野平省三 5着 第17回 1968年11月11日 タケシバオー Takeshiba O 保田隆芳 三井末太郎 8着 第18回 1969年11月11日 タケシバオー Takeshiba O 古山良司 三井末太郎 7着 第21回 1972年11月11日 メジロムサシ Mejiro Musashi 野平祐二 大久保末吉 7着 第24回 1975年11月08日 ツキサムホマレ Tsukisamu Homare 横山富雄 元石正雄 9着 第25回 1976年11月06日 フジノパーシア Fujino Parthia 大崎昭一 柴田寛 6着 第29回 1980年11月08日 ハシクランツ Hashi Kranz 柴田光陽 内藤繁春 8着
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