欧米地域での初勝利
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/06/18 16:02 UTC 版)
「日本調教馬の日本国外への遠征」の記事における「欧米地域での初勝利」の解説
1954年、日本中央競馬会にアメリカのローレルパーク競馬場から国際招待競走・ワシントンD.C.インターナショナル(以下「ワシントン国際」)への招待状がはじめて送付された。競馬会はこれに応じ、中央競馬初代年度代表馬のハクリョウが送られることになったが、輸送上の問題が発覚し実現しなかった。なお翌1955年9月に日本中央競馬会は国際競馬協定に加盟し、その存在を国際的に承認され、1957年に発表された「中央競馬運営方策要綱」の中では競馬の国際化が打ち出され、「国際的に信頼される競馬の確立」「競馬国際会議への参加」「諸外国競馬事情視察調査」「国産馬の国外遠征」が強調された。 1958年、日本中央競馬会は北米州競馬委員全国協会(NASRC)に代表団を初参加させ、ふたつの成果を生む。ひとつはニューヨーク・ジョッキークラブへの職員を派遣し研修させることができうるようになったこと、そしてもうひとつが、当時の日本最強馬であったハクチカラによるアメリカ遠征の実現である。戦後初の外国遠征馬となったハクチカラは、当初苦戦していたものの徐々に成績を上げてゆき、渡米後11戦目のワシントンバースデーハンデキャップ(レイ・ヨーク騎乗)で初勝利を挙げ、アメリカのステークス競走を制した最初の日本馬となった。ただし、ハクチカラは当時日本人の手を完全に離れ、現地の受け入れ先であったボブ・ウィラーの管理下にあり、事実上「アメリカに転厩した馬」という存在でもあった。 一方、ハクチカラに日本から帯同し5戦目まで騎乗した騎手・保田隆芳は、それまで日本で普及していた鐙革の長い「天神乗り」から、鐙革を短く詰めたアメリカ式のモンキー乗りへとフォームを改め、日本へ持ち帰った。日本において第一人者であった保田のフォーム改造は他の騎手にも大いに影響を与え、モンキー乗りは中央競馬、地方競馬いずれにおいても主流のフォームとして定着するに至った。なお保田はこのとき日本競馬とアメリカ競馬について「直感的に30年の差を感じた」としている。 また1966年には国内障害戦の最高級競走・中山大障害4連覇の実績を誇るフジノオーが、イギリスのジョッキークラブからの勧誘を受け、世界一過酷な障害戦として知られるグランドナショナルに挑んだ。規定上の最高斤量である168ポンド(76.2kg)を負ったフジノオーは第16障害で飛越を拒否して競走中止という結果に終わったが、そのままヨーロッパに留まり、転戦先のフランスにおいてレーヌ賞、クリスチャン・ド・レルミト賞という2競走を制し、ヨーロッパにおける日本馬の初勝利を挙げた。なお、障害競走への出走を目的とした遠征は、これが戦後唯一の事例である。
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