欧米各国での活躍
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1913年に柴田家の養子で医師(東京帝国大学医学部助手を経てシンガポールの三井ゴム園病院院長)の三浦政太郎と結婚した後、夫とともに1914年にドイツに留学する。しかし第一次世界大戦の戦火を逃れてイギリスに移動。 1915年のイギリス・デビューの成功を受けて同年に渡米し、ボストンで初めて蝶々さんを演じる。好意的な批評によって、その後『蝶々夫人』やマスカーニの『イリス』をニューヨークやサンフランシスコ、シカゴで演ずることができた(三浦環はメトロポリタン歌劇場に迎えられた最初の日本人歌手である)。その後ヨーロッパに戻りロンドンでビーチャム歌劇団と共演した。1918年にアメリカ合衆国に戻り、『蝶々夫人』とメサジェの『お菊さん』を上演するが、後者は「蝶々さん」の焼き直しに過ぎないとして不評であった。1920年にモンテカルロ、バルセロナ、フィレンツェ、ローマ、ミラノ、ナポリの歌劇場に客演する。1922年に帰国すると長崎に留まり、『蝶々夫人』とゆかりの土地を訪ね歩き、演奏会を開いた。またレコードも大ヒットし、同年11月時点で東京市だけで8万枚を売り上げた。 1924年に再び渡米し、サン・カルロ・オペラ団に出演する。1925年にシカゴに行き、アルド・フランケッティから献呈された『浪子さん』を初演する。その後はイタリアで歌手活動を続け、1935年にはシチリア島のパレルモで『蝶々夫人』出演2000回の記録を達成した。
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