再び渡米
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 03:54 UTC 版)
慶応3年(1867年)、幕府はアメリカに注文した軍艦を受け取りに行くため、幕府使節団(使節主席・小野友五郎、江戸幕府の軍艦受取委員会)をアメリカに派遣することにした。その随行団のメンバーの中に福沢諭吉が加わることになった(他に津田仙、尺振八もメンバーとして同乗)。慶応3年(1867年)1月23日、幕府使節団は郵便船「コロラド号」に乗って横浜港を出港する。このコロラド号はオーディン号や咸臨丸より船の規模が大きく、装備も設備も十分であった。福沢諭吉はこのコロラド号の船旅について「とても快適な航海で、22日目にサンフランシスコに無事に着いた」と「福翁自伝」に記している。 アメリカに到着後、幕府使節団はニューヨーク、フィラデルフィア、ワシントンD.C.を訪れた。この時、福沢は、紀州藩や仙台藩から預かった資金、およそ5,000両で大量の辞書や物理書・地図帳を買い込んだという。 慶応3年6月27日(1867年7月28日)、幕府使節団は日本に帰国した。福沢は現地で小野と揉めたため、帰国後はしばらく謹慎処分を受けたが、中島三郎助の働きかけですぐに謹慎が解けた。この謹慎期間中に、福沢は『西洋旅案内』(上下2巻)を書き上げた。
※この「再び渡米」の解説は、「福澤諭吉」の解説の一部です。
「再び渡米」を含む「福澤諭吉」の記事については、「福澤諭吉」の概要を参照ください。
- 再び渡米のページへのリンク