再び海へとは? わかりやすく解説

再び海へ

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/07/16 08:13 UTC 版)

アンドレス・デ・ウルダネータ」の記事における「再び海へ」の解説

1564年ヌエバ・エスパーニャ副王ルイス・デ・ベラスコ死去にともないヌエバ・エスパーニャ統治アウディエンシア管轄下に入ったフィリピン諸島征服と植民地化のための遠征準備最初課題となった。これは1559年フェリペ2世下した命令で、指揮官指名されたウルダネータは恐れていたし、副王は死ぬまでこの件を検討中としていた。ウルダネータは有能な航海士で、とりわけインド方面に強いと考えられていた。フェリペ2世はウルダネータに遠征参加要求し、彼を指揮官とすることを提案した。ウルダネータは遠征参加同意した指揮権前金認められず、ミゲル・ロペス・デ・レガスピ指揮官とされた。レガスピ座乗サン・パブロ号を旗艦とし、ウルダネータ座乗サン・ペドロ号、小型船サン・フアン号とサン・ルーカス号が続くこの遠征艦隊は、ハリスコ州バーラ・デ・ナビダードを1564年11月21日出発した。 島(フィリピン)でしばらく過ごしたレガスピは、島に残ることにした。そしてレガスピは、ヌエバ・エスパーニャ帰るための航路開拓と、フィリピン植民地への増派求めるために、ウルダネータを帰らせることにした。ウルダネータはセブ島サン・ミゲル1565年7月1日出航した。遙か北緯36度まで進まないと、良い風は得られなかった。航海中のトラブルから、ウルダネータ自身指揮をとることになったサン・ペドロ号は130日間12,000マイル20,000km)航海し1565年10月8日アカプルコ入港した。この航海乗組員14名が死んだ。錨を降ろす力が残っていたのは、レガスピの甥フェリペ・デ・サルセードとウルダネータだけだった到着後、ウルダネータは遠征艦隊の一員フィリピンに向かう途中はぐれたアロンソ・デ・アレジャノを見つけた(アレジャノはサン・ルーカス号に乗っていた)。アレジャノは艦隊はぐれてから、8月にバーラ・デ・ナビダードまで戻ってきていた。アレジャノの記録はウルダネータのものよりまったく不正確かつ専門的でなかったため、ウルダネータの航路有名になり、信用に足るものとされた。 ウルダネータは遠征報告のためヨーロッパ行き報告ヌエバ・エスパーニャ戻った。再びフィリピンに向かうことを望んだが、友人たち思いとどまらせた。彼は自身船旅に関する手記二つ書いた。その片方、ロアイサの遠征の話は出版された。もう片方の、帰還の話を書いたものは、原稿インディアス古文書館収蔵されている。 以後17世紀までマニラ・ガレオン呼ばれるスペイン船が、「ウルダネータの航路」を用いたスペイン19世紀まで、太平洋大半における名目上宗主権持っていたが、種々の理由で、北米太平洋岸や太平洋島々探検しなかった。 1568年メキシコシティ世を去った

※この「再び海へ」の解説は、「アンドレス・デ・ウルダネータ」の解説の一部です。
「再び海へ」を含む「アンドレス・デ・ウルダネータ」の記事については、「アンドレス・デ・ウルダネータ」の概要を参照ください。

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