インド(ヒンドゥスタン・カシミール)方面
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「タンマチ」の記事における「インド(ヒンドゥスタン・カシミール)方面」の解説
『元朝秘史』に「[オゴデイ・カアンは]まず手始めにチャガタイ兄者人と謀って、父君、チンギス・カンの服わぬままにすておいた[異]国人の、バクタト国の[主]、「カリバイ・ソルタンのもとへはチョルマグン叡負の士を出征させることとし、その後詰としてオコトル、モンゲトゥの二人の将軍を出征させ給うた」と記されるように、インド方面タンマチ軍はチョルマグン率いるイラン方面タンマチの後詰めとして派遣されたタンマチである。そのため、派遣時期は1229年と他のタンマチに比べ遅く、兵数も他のタンマチの半分となる2万しかいない。 インド方面タンマチの初代長官はオゴデイ家の王傅も務めたダイル・バートルで、ダイルは現在のインド北西部・アフガニスタン一帯に駐屯しインド方面の計略を始めた。なお、前述したようにダイルはイラン総督府のチン・テムルとオゴデイから委ねられた権限を巡って衝突したが、オゴデイの裁定によって訴えを退けられている。ダイルの死後はモンゲトゥ、オコトルらが跡を継いだが、この2名の事蹟についてはほとんど知られていない。 第4代長官となったのがタタル部のサリ・ノヤンで、サリ・ノヤンの時代にインド方面タンマチは大きな転機を迎えた。この頃帝位にあった第4代皇帝モンケはフレグを総司令とする西アジア遠征軍を派遣することを決定し、その上で「これに先だってバイジュやチョルマグンと共に、鎮守のためイラン国に派遣していた軍隊と、やはり鎮守のためにダイル・バートルと共にカシミール・ヒンド方面に派遣されていた軍隊を全てフレグの軍隊とする」と語り、これ以後インド方面タンマチはフレグの指揮下に入ることになる。サリ・ノヤン率いる軍勢は直接フレグの遠征軍に参加することはなく、インド方面に侵攻してインド人捕虜をフレグの下に送っていたが、1260年のモンケ急死によってインド方面タンマチをめぐる情勢は一変した。モンケの死を受けてフレグはイランで自立した(フレグ・ウルス)が、他の諸王の承認を得ない勝手な自立は周囲のジョチ・ウルスとチャガタイ・ウルスの札繰を生んだ。 同時期にチャガタイ・ウルスの君主となったアルグは1261年頃にサダイ・エルチをインド方面タンマチに派遣し、サダイ・エルチはサリ・ノヤン配下の武将を懐柔してサリ・ノヤンを捕縛させ、その軍団を自らのものとした。一方、ジョチ家からインド方面タンマチの下に派遣されていたネグデルはフレグとジョチ家の対立が深まると配下のタンマチを率いてフレグ・ウルスと敵対したため、この集団はフレグ・ウルスよりニクダリヤーン(「ネグデルに従うものたち」の意)とも呼ばれるようになり、ネグデルの死去後も「ニクダリヤーン」はインド方面タンマチ起源の軍団の別称の一つとして残った。しかし、すべてのインド方面タンマチがフレグ・ウルスと敵対したわけではなく、一部はフレグから東方の防備を委ねられたアバカの指揮下に入った。このように、ジョチ・ウルス、チャガタイ・ウルス、フレグ・ウルスに分属したインド方面タンマチは厄介な地方軍閥として認識されるようになり、インド人との混血で肌が浅黒く見えることから「カラウナス」という蔑称で知られるようになった。 フレグの死後にアバカが後を継ぐと、アバカは配下のインド方面タンマチ(カラウナス)を2分して半分は自らの直属軍として行動をともにさせ、半分はそのままイラン東部の守護のためホラーサーン州のアム河河畔に残し、これ以後フレグ・ウルス内のカラウナスは2つの軍団(万人隊)が知られるようになった。志茂敏夫は便宜上前者を「親衛カラウナス万人隊」、後者を「ホラーサーンカラウナス万人隊」と呼称している。「親衛カラウナス万人隊」はその名の通りイル・カンの直属軍としてフレグ・ウルスの主立った戦役に参戦しており、初代隊長のクト・ブカは1265年のジョチ家との戦争で戦死し、第2代隊長のスニタイは1269年のチャガタイ家との戦争(カラ・スゥ平原の戦い)で勝利に大きく貢献した。 しかし、1284年のアバカ・カン没後にカン位を巡るフレグ・ウルスの内紛が激しくなると、インド方面タンマチもイラン方面タンマチと同様にこれに巻き込まれていった。アバカ没後のアルグンとテグデルのカン位争い時にホラーサーンカラウナス万人隊はアルグン側に味方したが、指揮官の一人ニクベイはアルグンがテグデルによって軟禁された時に捕らえられて処刑されてしまった。また、もう一人の指揮官ヒンドゥはアルグン側が劣勢なのを見て合流を取りやめたため、アルグンが最終的に勝利を収めると報復を恐れてヘラートのクルト朝に亡命したが、1285年にアルグンに引き渡されて処刑されてしまった。この2人の指揮官の処刑を経てホラーサーンカラウナス万人隊は分割・解体されてしまった。一方、親衛カラウナス万人隊では隊長のタガチャルが打ち続く内乱の中で何度も主君を変えて保身を図ったが、最後には第7代君主ガザンの派遣した刺客によって即位後わずか6日で殺害された。 一方、チャガタイ・ウルスではアルグの死後混乱が続いていたが、最終的にチャガタイ家の当主となったドゥアがオゴデイ家のカイドゥに服属し、カラウナス=ニクダリヤーンもこれに従った。カイドゥはかつてチャガタイ・ウルスの君主でもあったムバーラク・シャーをカラウナスの指導者として送り込み、ムバーラク・シャーはしばしばフレグ・ウルスの東部国境に進攻して最後にはケルマーンで戦死した。1293年頃にはフレグ・ウルスで起きたノウルーズの反乱に対処するため、 オゴデイ家・チャガタイ家の混成軍からなる5万の軍隊がガズナ地方に駐屯することになった。この時チャガタイ・ウルスから派遣されたドゥアの息子クトゥルク・ホージャはドゥアの命によってニクダリヤーンの長とされ、現在のアフガニスタン北部・東部一帯に独立した勢力を築くこととなる。 カイドゥの死後、ドゥアは自立して事実上「カイドゥ・ウルス」を乗っ取り、「チャガタイ・カン国」を建設した。クトゥルク・ホージャは『集史』においてドゥアの共同統治者であるかのように記され、また独自のコインを発行するなど、一国の主であるかのような扱いを受けた。クトゥルク・ホージャ以後もカラウナスは代々チャガタイ家の人間をいただく独自の軍団として存続し、1346年にはカザガンが最後の「チャガタイ・カン」カザン を殺害して自立し、カラウナス王国を築いた。
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インド方面
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イラン方面の後詰めとして派遣されたものであるためか、 規模は他のタンマチの半数となる「2つの万人隊」しかない。しかしモンケ死去後の混乱の中でチャガタイ・ウルスに属する カラウナス、ジョチ・ウルスに属するニクダリヤーン、フレグ・ウルスに属するカラウナスといくつかの集団に分立し、結果としてタンマチの中でも最も多くの派生集団を有するようになった。 地位名前ペルシア語表記漢字表記出身部族備考初代隊長 ダイル・バートル دایر(Dāīr) 荅亦児(tàyìér) スニト部 第2代隊長 モンゲトゥ مونکدو(mūnkdū) 蒙格禿(mēnggétū) ベスト部 第3代隊長 オコトル هوقوتر(hūqūtur) 斡豁禿児(wòhuōtūér) コンギラト部 第4代隊長 サリ・ノヤン سالی نویان(sālī nūyān) タタル部
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