インド方面とは? わかりやすく解説

インド(ヒンドゥスタン・カシミール)方面

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/12/02 23:25 UTC 版)

タンマチ」の記事における「インド(ヒンドゥスタン・カシミール)方面」の解説

元朝秘史』に「[オゴデイ・カアンは]まず手始めチャガタイ兄者人と謀って、父君チンギス・カン服わぬままにすておいた[異]国人の、バクタト国の[主]、「カリバイ・ソルタンのもとへはチョルマグン叡負の士を出征させることとしその後詰としてオコトルモンゲトゥ二人将軍出征させ給うた」と記されるように、インド方面タンマチ軍はチョルマグン率いイラン方面タンマチ後詰めとして派遣されタンマチである。そのため、派遣時期1229年と他のタンマチ比べ遅く兵数も他のタンマチ半分となる2万かいない。 インド方面タンマチ初代長官オゴデイ家の王傅も務めたダイル・バートルで、ダイル現在のインド北西部アフガニスタン一帯駐屯しインド方面の計略始めた。なお、前述したようにダイルイラン総督府のチン・テムルオゴデイから委ねられ権限巡って衝突したが、オゴデイ裁定によって訴え退けられている。ダイル死後モンゲトゥオコトルらが跡を継いだが、この2名の事蹟についてはほとんど知られていない。 第4代長官となったのがタタル部サリ・ノヤンで、サリ・ノヤン時代にインド方面タンマチ大きな転機迎えたこの頃帝位にあった4代皇帝モンケフレグ総司令とする西アジア遠征軍派遣することを決定しその上で「これに先だってバイジュチョルマグンと共に鎮守のためイラン国に派遣していた軍隊と、やはり鎮守のためにダイル・バートルと共にカシミール・ヒンド方面派遣されていた軍隊全てフレグ軍隊とする」と語り、これ以後インド方面タンマチフレグ指揮下に入ることになる。サリ・ノヤン率い軍勢直接フレグ遠征軍参加することはなく、インド方面に侵攻しインド人捕虜フレグの下に送っていたが、1260年モンケ急死によってインド方面タンマチをめぐる情勢一変したモンケの死を受けてフレグイラン自立したフレグ・ウルス)が、他の諸王承認を得ない勝手な自立周囲ジョチ・ウルスチャガタイ・ウルス繰を生んだ同時期にチャガタイ・ウルス君主となったアルグ1261年頃にサダイ・エルチをインド方面タンマチ派遣し、サダイ・エルチはサリ・ノヤン配下武将懐柔してサリ・ノヤン捕縛させ、その軍団を自らのものとした。一方ジョチ家からインド方面タンマチの下に派遣されていたネグデルはフレグジョチ家対立が深まると配下タンマチ率いてフレグ・ウルス敵対したため、この集団フレグ・ウルスよりニクダリヤーン(「ネグデルに従うものたち」の意)とも呼ばれるようになり、ネグデルの死去後も「ニクダリヤーン」はインド方面タンマチ起源軍団別称一つとして残った。しかし、すべてのインド方面タンマチフレグ・ウルス敵対したわけではなく一部フレグから東方防備委ねられアバカ指揮下に入ったこのようにジョチ・ウルスチャガタイ・ウルスフレグ・ウルスに分属したインド方面タンマチ厄介な地方軍閥として認識されるようになり、インド人との混血で肌が浅黒く見えることから「カラウナス」という蔑称知られるようになったフレグ死後アバカ後を継ぐと、アバカ配下のインド方面タンマチ(カラウナス)を2分して半分は自らの直属軍として行動をともにさせ、半分そのままイラン東部守護のためホラーサーン州アム河畔残し、これ以後フレグ・ウルス内のカラウナスは2つ軍団万人隊)が知られるようになった志茂敏夫は便宜上前者を「親衛カラウナス万人隊」、後者を「ホラーサーンカラウナス万人隊」と呼称している。「親衛カラウナス万人隊」はその名の通りイル・カン直属軍としてフレグ・ウルス主立った戦役参戦しており、初代隊長のクト・ブカは1265年ジョチ家との戦争戦死し第2代隊長のスニタイは1269年チャガタイ家との戦争カラ・スゥ平原の戦い)で勝利大きく貢献した。 しかし、1284年のアバカ・カン没後カン位を巡るフレグ・ウルス内紛激しくなると、インド方面タンマチイラン方面タンマチ同様にこれに巻き込まれていったアバカ没後アルグンテグデルカン争い時にホラーサーンカラウナス万人隊はアルグン側に味方したが、指揮官一人ニクベイアルグンテグデルによって軟禁され時に捕らえられ処刑されてしまった。また、もう一人指揮官ヒンドゥはアルグン側が劣勢なのを見て合流取りやめたため、アルグン最終的に勝利を収める報復恐れてヘラートクルト朝亡命したが、1285年アルグン引き渡され処刑されてしまった。この2人指揮官処刑経てホラーサーンカラウナス万人隊は分割解体されてしまった。一方親衛カラウナス万人隊では隊長タガチャル打ち続く内乱の中で何度も主君変えて保身図ったが、最後に第7代君主ガザン派遣した刺客によって即位後わずか6日殺害された。 一方チャガタイ・ウルスではアルグ死後混乱続いていたが、最終的にチャガタイ家当主となったドゥアオゴデイ家カイドゥ服属し、カラウナス=ニクダリヤーンもこれに従ったカイドゥはかつてチャガタイ・ウルス君主でもあったムバーラク・シャーをカラウナスの指導者として送り込みムバーラク・シャーはしばしフレグ・ウルス東部国境進攻して最後にケルマーン戦死した1293年頃にはフレグ・ウルス起きたノウルーズ反乱対処するため、 オゴデイ家チャガタイ家混成からなる5万軍隊ガズナ地方駐屯することになった。この時チャガタイ・ウルスから派遣されドゥア息子クトゥルク・ホージャはドゥアの命によってニクダリヤーンの長とされ、現在のアフガニスタン北部東部一帯独立した勢力を築くこととなる。 カイドゥ死後ドゥア自立して事実上「カイドゥ・ウルス」を乗っ取り、「チャガタイ・カン国」を建設した。クトゥルク・ホージャは『集史』においてドゥア共同統治者あるかのように記され、また独自のコイン発行するなど、一国の主であるかのような扱い受けた。クトゥルク・ホージャ以後もカラウナスは代々チャガタイ家人間をいただく独自の軍団として存続し1346年にはカザガン最後の「チャガタイ・カン」カザン殺害して自立し、カラウナス王国築いた

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インド方面

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タンマチ」の記事における「インド方面」の解説

イラン方面後詰めとして派遣されたものであるためか、 規模は他のタンマチ半数となる「2つ万人隊」しかない。しかしモンケ死去後混乱の中でチャガタイ・ウルス属する カラウナス、ジョチ・ウルス属するニクダリヤーン、フレグ・ウルス属するカラウナスといくつかの集団分立し結果としてタンマチ中でも最も多く派生集団有するようになった地位名前ペルシア語表記漢字表記出身部族備考初代隊長 ダイル・バートル دایر(Dāīr) 荅亦児(tàyìér) スニト第2代隊長 モンゲトゥ مونکدو(mūnkdū) 蒙格禿(mēnggétū) ベスト第3隊長 オコトル هوقوتر(hūqūtur) 斡豁禿児(wòhuōtūér) コンギラト部 第4代隊長 サリ・ノヤン سالی نویان(sālī nūyān) タタル部

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