インド方面におけるイギリス海軍の指揮とは? わかりやすく解説

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インド方面におけるイギリス海軍の指揮

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2018/03/21 02:11 UTC 版)

ジョージ・ポコック (軍人)」の記事における「インド方面におけるイギリス海軍の指揮」の解説

詳細は「en:Great Britain in the Seven Years' War」を参照 1757年ワトソン死去すると、ポコックは東インド艦隊指揮をとることになった1758年には、海軍代将チャールス・スティーヴンス(英語版)(1761年没)が麾下入ったが、この増派得て艦隊小さな戦列艦7隻という規模に過ぎなかった。フランスイギリスの間で戦争が始まると、フランス側インド洋島嶼拠点からベンガル湾艦隊派遣しポンディシェリ支援しようとした。 このフランス側艦隊を、到着前に捕捉するのが、ポコックの課題になった実際フランス側実力は、イギリス側よりも劣っていた。フランス艦隊率いていたダシェ伯爵は、商船若干武装施しただけのインディアマンを艦列に加えなければならない状況だった。それでも、フランス側は数の上では優位にあり、ポコックは、古くからの公式戦司令基づいて戦うという当時実践に従わなければならなかった。ポコックは、自身の艦列を敵に並走させ、戦闘続いている間、艦隊隊列維持しなければならなかった。 ポコックとダシェの海戦は、いずれも決着が着かなかった。最初に戦った1758年4月29日カッダロール海戦では、フランス側ポンディシェリ入港することを阻止できなかった。2回目戦いで激戦となった8月3日ナーガパッティナムの海戦の後、フランス側モーリシャス戻り、やがてモンスーン時期になるとポコックもボンベイ戻った春先になってから彼は戦線復帰して包囲されていたマドラス解放加わったが、ダシェの方は9月までベンガル湾戻ってこなかった。ポコックは、またしてもダシェのポンディシェリ入港を阻めず、両者激戦した1759年9月10日ポンディシェリーの海戦も、決着はつかなかった。フランス政府財政破綻瀕し、ダシェは艦隊への補給受けられなくなった。ダシェはモーリシャスに戻ることを余儀なくされ、イギリスコロマンデル海岸マラバール海岸支配確保した。ポコックは、1760年帰国し1761年バス勲章ナイト級を授与され海軍大将昇進した

※この「インド方面におけるイギリス海軍の指揮」の解説は、「ジョージ・ポコック (軍人)」の解説の一部です。
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