インド方面におけるイギリス海軍の指揮
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「ジョージ・ポコック (軍人)」の記事における「インド方面におけるイギリス海軍の指揮」の解説
詳細は「en:Great Britain in the Seven Years' War」を参照 1757年にワトソンが死去すると、ポコックは東インド艦隊の指揮をとることになった。1758年には、海軍代将チャールス・スティーヴンス(英語版)(1761年没)が麾下に入ったが、この増派を得ても艦隊は小さな戦列艦7隻という規模に過ぎなかった。フランスとイギリスの間で戦争が始まると、フランス側はインド洋の島嶼の拠点からベンガル湾へ艦隊を派遣し、ポンディシェリを支援しようとした。 このフランス側の艦隊を、到着前に捕捉するのが、ポコックの課題になった。実際、フランス側の実力は、イギリス側よりも劣っていた。フランス艦隊を率いていたダシェ伯爵は、商船に若干の武装を施しただけのインディアマンを艦列に加えなければならない状況だった。それでも、フランス側は数の上では優位にあり、ポコックは、古くからの公式戦闘司令に基づいて戦うという当時の実践に従わなければならなかった。ポコックは、自身の艦列を敵に並走させ、戦闘が続いている間、艦隊の隊列を維持しなければならなかった。 ポコックとダシェの海戦は、いずれも決着が着かなかった。最初に戦った1758年4月29日のカッダロールの海戦では、フランス側がポンディシェリに入港することを阻止できなかった。2回目の戦いで激戦となった8月3日のナーガパッティナムの海戦の後、フランス側はモーリシャスに戻り、やがてモンスーンの時期になるとポコックもボンベイに戻った。春先になってから彼は戦線に復帰して、包囲されていたマドラスの解放に加わったが、ダシェの方は9月までベンガル湾に戻ってこなかった。ポコックは、またしてもダシェのポンディシェリ入港を阻めず、両者が激戦した1759年9月10日のポンディシェリーの海戦も、決着はつかなかった。フランス政府の財政は破綻に瀕し、ダシェは艦隊への補給を受けられなくなった。ダシェはモーリシャスに戻ることを余儀なくされ、イギリスはコロマンデル海岸とマラバール海岸の支配を確保した。ポコックは、1760年に帰国し、1761年のバス勲章ナイト級を授与され、海軍大将に昇進した。
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