1758年とは? わかりやすく解説

Weblio 辞書 > 学問 > 近世年表 > 1758年の意味・解説 

宝暦8年 (つちのえとら 戊寅)

宝暦8年
年(年号)
1742年 (寛保2年) 公事方御定書制定
1744年 (延享元年) 神田天文台設置
宝暦8年
1764年 (明和元年) 江戸大火
1772年 (安永元年) 目黒行人坂火事


宝暦8年
小川 笙船 1672年1760年(寛文12年宝暦10年) 86
野呂 元丈 1693年1761年(元禄6年宝暦11年) 65
青木 昆陽 1698年1769年(元禄11年明和6年) 60
与謝 蕪村 1716年1783年(享保元年天明3年) 42
田沼 意次 1720年1788年(享保5年天明8年) 38
山県 大弐 1725年1767年(享保10年明和4年) 33才
平賀 源内 1728年1779年(享保13年安永8年) 30
杉田 玄白 1733年1817年(享保18年文化14年) 25
中川 淳庵 1739年1786年(元文4年天明6年) 19才
伊能 忠敬 1745年1818年(延享2年文政元年) 13
長谷川 平蔵 1745年1795年(延享2年寛政7年) 13
塙 保己一 1746年1821年(延享3年文政4年) 12
司馬 江漢 1747年1818年(延享4年文政元年) 11
並木 五瓶 1747年1808年(延享4年文化5年) 11
大田 南畝 1749年1823年(寛延2年文政6年) 9才
蔦谷 重三郎 1750年1797年(寛延3年寛政9年) 8才
笠森 お仙 1751年1827年(宝暦元年文政10年) 7才
桂川 甫周 1751年1809年(宝暦元年文化6年) 7才
喜多川 歌麿 1753年1806年(宝暦3年文化3年) 5才
鶴屋 南北 1755年1829年(宝暦5年文政12年) 3才
大槻 玄沢 1757年1827年(宝暦7年文政10年) 1才
松平 定信 1758年〜1829年(宝暦8年〜文政12年) 0才
鈴木 春信 ????年〜1770年(??年〜明和7年) ?才

1758年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2021/03/03 01:47 UTC 版)

1758年(1758 ねん)は、西暦グレゴリオ暦)による、日曜日から始まる平年




  1. ^ 小学館デジタル大辞泉. “久留島義太”. コトバンク. 2021年2月26日閲覧。


「1758年」の続きの解説一覧

1758年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/18 13:24 UTC 版)

七年戦争」の記事における「1758年」の解説

1758年のはじめ、フリードリヒ2世モラヴィア侵攻しオルミュッツ包囲した(現チェコオロモウツ)。オーストリア軍ドームシュタットルの戦い勝利してプロイセン軍補給部隊奪取すると、フリードリヒ2世包囲中止してモラヴィアから撤退以降大規模なオーストリア侵攻はおこらなかった。1758年1月ロシア軍東プロイセン侵攻したが、プロイセン軍がほとんどおらず、ロシアはほぼ無抵抗同地占領した以降1762年までロシア東プロイセン支配下においたが、フリードリヒ2世ロシア軍直近脅威とは見ず、まずオーストリア軍徹底的に撃破し和平迫ろうとした。 4月イギリスフリードリヒ2世英普協定締結して67ポンド補助金英語版)をプロイセン与えたまた、イギリス大ピット政策変え兵士9千を増援としてフェルディナント率いハノーファー軍に派遣した七年戦争中、イギリスがはじめて大陸ヨーロッパ派兵したのはこのときであったフェルディナントフランス軍ハノーファーヴェストファーレンから追い出し3月エムデン港を再占領すると、ライン川渡河した。彼は迎撃にきたフランス軍クレーフェルトの戦い撃破し一時デュッセルドルフ占領したが、フランス巧みな行軍でライン川渡って撤退せざるをえなかった。 ここでフリードリヒ2世ロシア軍西進憂慮して東へ進軍、1758年8月25日オーデル川の東、ノイマルク(英語版)においてツォルンドルフの戦い(現ポーランド領サルビノヴォ)を戦ったフリードリヒ2世率いプロイセン軍35千とウィリアム・フェルマー率いロシア軍43千と戦いそれぞれ1万2800人と1万8000人と両軍とも損害甚大であったが、ロシア軍退却したためフリードリヒ2世勝利を宣言したアメリカの歴史家ダニエル・マーストンはツォルンドルフの戦い引き分けとした。彼は両軍とも疲憊して二度とお互い戦いたくなかったことをその判断理由とした。9月26日トルノーの戦いではスウェーデン軍プロイセン騎兵による6回の突撃跳ね返しその2日後のフェールベリンの戦いプロイセン軍撤退させたが、スウェーデン軍ベルリンへ進撃しなかった。 戦争そのまま進展のないまま推移したが、10月14日ダウン率いオーストリア軍ザクセンでのホッホキルヒの戦いにおいてプロイセン軍奇襲したフリードリヒ2世多く大砲失ったが、周り鬱蒼とした森林助けられ撤退成功したオーストリア軍戦闘勝利したものの、ザクセンにおける戦役行き詰まりドレスデン攻撃失敗した後はオーストリア領まで退却して冬営入りザクセンプロイセン占領下置かれたままとなった同時期にロシア軍ポンメルンにおいてコルベルク包囲戦(現ポーランドコウォブジェク)を敢行したが失敗したフランスでも1758年の戦役精彩欠けたものであり、これを見かねてショワズール公外務大臣実質的に宰相)に任命された。彼はイギリスハノーファー猛攻して1759年戦争を終わらそうとした。[要出典]

※この「1758年」の解説は、「七年戦争」の解説の一部です。
「1758年」を含む「七年戦争」の記事については、「七年戦争」の概要を参照ください。


1758年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/04/26 00:05 UTC 版)

フレンチ・インディアン戦争」の記事における「1758年」の解説

詳細は「デュケーヌ砦の戦い」を参照 1758年9月から10月にかけて、イギリス軍の作戦であるフォーブズ遠征が行われた。ジョン・フォーブズ将軍率い6000規模部隊は、抗争絶えないオハイオ領土から、フランス軍追い出すのが目的だった。9月14日デュケーヌ砦向かったイギリス軍撃退されたが、その後フランス軍は、オハイオ領土イギリスの支配下に置いたまま砦から退却した イギリス軍デュケーヌ砦入り、この砦を再建してウィリアム・ピットにちなんで、ピット砦命名した。これが今のピッツバーグである。ノバスコシアルイブールフランス大々的な砦は、包囲戦の末イギリスの手落ちた詳細は「カリヨンの戦い」を参照 3度目侵攻作戦は、カリヨンの戦いでのフランス軍勝利阻止された。この戦いでは、3600人のフランス兵見事に、そして意を決してアバークロンビー率い1万8千人イギリス軍正規兵、民兵、そしてインディアン同盟軍を、砦の外で完敗させた。アバークロンビー戦いの後ジョージ湖の南まで敗走したが、その後8月26日から27日にかけて、フロンテナック砦をジョン・ブラッドストリート大佐襲撃させて物資奪いケベックと、他の砦との連絡絶った。後にアバークロンビーは、ルイブールの戦い勝者であるジェフリー・アマーストにその地位譲った

※この「1758年」の解説は、「フレンチ・インディアン戦争」の解説の一部です。
「1758年」を含む「フレンチ・インディアン戦争」の記事については、「フレンチ・インディアン戦争」の概要を参照ください。


1758年

出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2022/05/06 14:14 UTC 版)

エドワード・ホーク」の記事における「1758年」の解説

イギリスヨーロッパ戦線における戦いぱっとしなかった。ロシュフォール遠征加えてフランス陸軍抑制する作戦として、シェルブールサン・マロへの遠征行われたが、悪天候疫病悩まされまた、さしたる目的もなく行われたこともあり、戦果挙げられなかった。その後再びサン・マロ遠征したが、フランス軍待ち伏せ遭い多くの兵を失って撤退した。 1758年、ホーク半年にわたりブレスト封鎖指揮した。同じ年の5月ホークハウとの共同作戦任されたが、この時期ホークは、アドミラルティとの関係がよくなく、任務途中放棄したため、アドミラル・ボードから放棄せず続けるようにと説得された。アドミラル・ボードの委員たちは、ホークどういう人物であるかをわきまえていた。この年6月ホークは健康上の理由で一旦戦列退いたが、翌1759年5月には現場復帰した

※この「1758年」の解説は、「エドワード・ホーク」の解説の一部です。
「1758年」を含む「エドワード・ホーク」の記事については、「エドワード・ホーク」の概要を参照ください。

ウィキペディア小見出し辞書の「1758年」の項目はプログラムで機械的に意味や本文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。 お問い合わせ

「1758年」の例文・使い方・用例・文例

Weblio日本語例文用例辞書はプログラムで機械的に例文を生成しているため、不適切な項目が含まれていることもあります。ご了承くださいませ。


英和和英テキスト翻訳>> Weblio翻訳
英語⇒日本語日本語⇒英語
  

辞書ショートカット

すべての辞書の索引

「1758年」の関連用語

1758年のお隣キーワード
検索ランキング

   

英語⇒日本語
日本語⇒英語
   



1758年のページの著作権
Weblio 辞書 情報提供元は 参加元一覧 にて確認できます。

   
江戸net江戸net
Copyright (C) 2024 財団法人まちみらい千代田 All rights reserved.
ウィキペディアウィキペディア
All text is available under the terms of the GNU Free Documentation License.
この記事は、ウィキペディアの1758年 (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。 Weblio辞書に掲載されているウィキペディアの記事も、全てGNU Free Documentation Licenseの元に提供されております。
ウィキペディアウィキペディア
Text is available under GNU Free Documentation License (GFDL).
Weblio辞書に掲載されている「ウィキペディア小見出し辞書」の記事は、Wikipediaの七年戦争 (改訂履歴)、フレンチ・インディアン戦争 (改訂履歴)、エドワード・ホーク (改訂履歴)の記事を複製、再配布したものにあたり、GNU Free Documentation Licenseというライセンスの下で提供されています。
Tanaka Corpusのコンテンツは、特に明示されている場合を除いて、次のライセンスに従います:
 Creative Commons Attribution (CC-BY) 2.0 France.
この対訳データはCreative Commons Attribution 3.0 Unportedでライセンスされています。
浜島書店 Catch a Wave
Copyright © 1995-2024 Hamajima Shoten, Publishers. All rights reserved.
株式会社ベネッセコーポレーション株式会社ベネッセコーポレーション
Copyright © Benesse Holdings, Inc. All rights reserved.
研究社研究社
Copyright (c) 1995-2024 Kenkyusha Co., Ltd. All rights reserved.
日本語WordNet日本語WordNet
日本語ワードネット1.1版 (C) 情報通信研究機構, 2009-2010 License All rights reserved.
WordNet 3.0 Copyright 2006 by Princeton University. All rights reserved. License
日外アソシエーツ株式会社日外アソシエーツ株式会社
Copyright (C) 1994- Nichigai Associates, Inc., All rights reserved.
「斎藤和英大辞典」斎藤秀三郎著、日外アソシエーツ辞書編集部編
EDRDGEDRDG
This page uses the JMdict dictionary files. These files are the property of the Electronic Dictionary Research and Development Group, and are used in conformance with the Group's licence.

©2024 GRAS Group, Inc.RSS