おおた‐なんぽ〔おほた‐〕【大田南畝】
大田 南畝 (おおた なんぼ)
1749〜1823 (寛延2年〜文政6年) |
【戯作者】 幕臣で狂歌師、戯作者。江戸文化の転換期に軽妙な機知と笑いで、一世を風靡。 |
江戸出身。御徒勤めの幕臣。平賀源内との交流で触発され、19歳で文壇に登場。山手馬鹿人などのペンネームで、多数の洒落本・黄表紙を執筆、天明期に『万載狂歌集』で一世を風靡。「恐れ入谷の鬼子神」など地名を読み込んだ歌は、現在も親しまれる。寛政の改革に抵触、文壇を去ると、56歳で湯島聖堂に入った。以後幕吏として大坂、長崎へも出役した。蜀山人、四方赤良など、多くの号がある。 |
年(和暦) | ||
●1764年 (明和元年) | ■江戸大火 | 15才 |
●1772年 (安永元年) | ■目黒行人坂火事 | 23才 |
●1783年 (天明3年) | ■浅間山噴火 | 34才 |
●1789年 (寛政元年) | ■棄捐令 | 40才 |
●1790年 (寛政2年) | ■石川島に人足寄場を設置 | 41才 |
●1791年 (寛政3年) | ■江戸市中銭湯の男女混浴を禁止 | 42才 |
●1797年 (寛政9年) | ■湯島聖堂を昌平坂学問所と改称 | 48才 |
●1803年 (享和3年) | ■江戸開府200年 | 54才 |
●1806年 (文化3年) | ■芝の大火 | 57才 |
●1808年 (文化5年) | ■フェートン号事件 | 59才 |
・伊能 忠敬 | 1745年〜1818年 (延享2年〜文政元年) | +4 |
・長谷川 平蔵 | 1745年〜1795年 (延享2年〜寛政7年) | +4 |
・塙 保己一 | 1746年〜1821年 (延享3年〜文政4年) | +3 |
・司馬 江漢 | 1747年〜1818年 (延享4年〜文政元年) | +2 |
・並木 五瓶 | 1747年〜1808年 (延享4年〜文化5年) | +2 |
・蔦谷 重三郎 | 1750年〜1797年 (寛延3年〜寛政9年) | -1 |
・笠森 お仙 | 1751年〜1827年 (宝暦元年〜文政10年) | -2 |
・桂川 甫周 | 1751年〜1809年 (宝暦元年〜文化6年) | -2 |
・喜多川 歌麿 | 1753年〜1806年 (宝暦3年〜文化3年) | -4 |
・鶴屋 南北 | 1755年〜1829年 (宝暦5年〜文政12年) | -6 |
大田南畝
出典: フリー百科事典『ウィキペディア(Wikipedia)』 (2023/07/23 09:54 UTC 版)
大田 南畝(おおた なんぽ、寛延2年3月3日〈1749年4月19日〉- 文政6年4月6日〈1823年5月16日〉[1])は、天明期を代表する文人・狂歌師であり、御家人。
注釈
- ^ これは師匠であった松崎観海の漢詩集『観海先生集』を捩っている。さらに作者名を陳奮翰子角(ちんぷんかんしかく)、編集者を安本丹親玉(あんぽんたんおやだま)などとする徹底した漢字遊びが随所に見られる。これが漢詩を学ぶ武士には大いに評判となった。平賀源内は「戯家(たわけ)の同士」と巻頭序文を寄せている。
- ^ “夜もすがら”からの捩り。後に南畝の高名さが「高き名のひびきは四方にわき出て 赤ら赤らと子供まで知る」という狂歌で詠まれている。
- ^ 当代の文化人たちも自ら狂名を定めて楽しんだ。
- ^ 藤原俊成の「夕されば野辺の秋風身にしみて鶉鳴くなり深草の里」の歌を引いた、「ひとつとりふたつとりては焼いて食う鶉なくなる深草の里」なども知られる。
- ^ 「月をめづる夜のつもりてや茶屋のかかも ついに高田のばばとなるらん」の狂歌が残る。
- ^ 「をやまんとすれども雨の足しげく 又もふみこむ 恋のぬかるみ」など。
- ^ 元歌は「ぶんぶといふて身をせめるなり」とする説もある。
- ^ 同時代の平戸藩主松浦静山の随筆「甲子夜話」には同歌の下の句を「ぶんぶというて夜も寝られず」とした上で、「大田直次郎という御徒士の落首」と記している。
- ^ 毛虫を題として「毛をふいて きずやもとめんさしつけて きみがあたりにはひかかりなば」などが知られる。
- ^ 「或る人の話、南畝老人は狂歌にて一徳一損あり。いかなる田舎までも赤良という名を知らざる人なきは狂歌の徳なり。役儀につきて勤功ありしゆえ、御旗本に召し出さるべき御沙汰ありしかども、狂歌師の四方の赤良といはれたる者を召し出されん事、同席の恥辱なりといふ論ありてその事やみたり。これ一損なり。」足代弘訓『伊勢の家苞』など。
- ^ このときに「永代と 言われし橋が落ちにけり 今日の祭礼明日の葬礼」と詠んだ。
- ^ この時の心境を「うみの子の いやつぎくにめぐみある 主計(かずへ)のかずに入ぞ嬉しき」と詠んでいる。
- ^ 「生きすぎて 七十五年食ひつぶし かぎり知られぬ天地の恩」とも伝わる。
- ^ 旅日記『改元紀行』を著している。
- ^ 「本業は幕府の実直な役人…大阪の銅座や長崎奉行所にも転勤した。長崎には…外国船が近海に現れ始めたころで、ロシアの特使レザノフ と会見している。オランダ船でコーヒーを飲み、日本初の体験記を残した。ただ、感想は「焦げ臭くして味ふるに堪ず」と素っ気なかった」という[16]。
出典
- ^ a b 『大田南畝』 - コトバンク
- ^ 大田南畝「金曾木」吉川弘文館(日本随筆大成 巻3)、1927年,728頁。
- ^ a b 大田南畝「金曾木」吉川弘文館(日本随筆大成 巻3)、1927年,5頁の大田南畝の凡例より。
- ^ “謎解き!江戸のススメ #114 2014年6月9日放送”. BS-TBS (2014年6月9日). 2018年10月31日閲覧。
- ^ “蜀山人・大田南畝~ワークライフバランスの達人”. WEB歴史街道 (2018年5月9日). 2018年10月31日閲覧。
- ^ a b c すみだゆかりの人々 1985, p. 4.
- ^ 『明詩擢材』五巻 -国立国会図書館サーチ
- ^ 『望月帖』。
- ^ q:大田南畝
- ^ 加来耕三『日本史人物「その後のはなし」』 下巻、講談社〈講談社+α文庫〉、1995年2月。ISBN 4-06-256082-8。
- ^ すみだゆかりの人々 1985, p. 5.
- ^ ベアトリス・M・ボダルト=ベイリー『ケンペルと徳川綱吉 ドイツ人医師と将軍との交流』中央公論社 1994年 p.95
- ^ 大田南畝「半日閑話」吉川弘文館(日本随筆大成 巻4)、1927年,3頁の半日閑話の凡例より。
- ^ 村山修一『京都大仏御殿盛衰記』法藏館、2003年 p.158
- ^ 『大田南畝全集』第十八巻 岩波書店 1988年 p.173
- ^ 「春秋」『日本経済新聞』(朝刊、2014年9月8日付)
「大田 南畝」の例文・使い方・用例・文例
- 大田さんは 55 といういい年をしながらプラモデルに凝っている.
- 私は当時 40 歳, 大田さんもおっつかっつの年頃だったと思う.
- 大田さんが音頭を取ってこの企画をスタートさせたのです.
- 大田文という,中世の土地台帳
- 大田原市という市
- 大田市という市
- 東京都大田区のイトーヨーカドーの店舗では,20種類以上のトマトが日ごろから販売されている。
- 東京都大田区には家族経営の小さな製造会社がたくさんあります。
- 大田区にあるそのような小さな会社は,海外からの注文を勝ち取ろうと模索しています。
- 大田区役所と地元の複数の企業が,自社の製造技術の高さを世界に示すような製品を作るために協力することを決めました。
- プロジェクトが始まる前,大田区の企業はそれぞれで仕事をしており,お互いにつき合いはほとんどありませんでした。
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