あじろ‐ひろのり【足代弘訓】
足代弘訓
足代弘訓
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足代 弘訓(あじろ ひろのり、天明4年11月26日(1785年1月6日) - 安政3年11月5日(1856年12月2日))は、日本の江戸時代後期の国学者、歌人。号は寛居(ゆたい)。通称は式部・権太夫。父は伊勢外宮祠官足代弘早[1]。伊勢国の人。
生涯
伊勢内宮の荒木田久老に国学を学び、久老の没後は本居春庭・本居大平の門に入った。伊勢国山田の鈴屋の師道者とし活躍した。京阪や江戸に出て多くの文人と交流している。大塩平八郎とも親交があったことから、大塩平八郎の乱において関与を疑われて取り調べを受けている[2]。神宮内では祠官の堕落に対して弊風を粛清する運動を展開、天保の大飢饉に際しては窮民救済の運動を行った。幕末期には、多くの志士と交流し、一方で弟子の教育にあたった。
門下に正住弘美、志田義貫、生川正香、白井重固、渡辺政香らがいる。
作歌
- 『皇国の四季』(共作)
脚注
注釈
出典
- ^ 上田正昭、津田秀夫、永原慶二、藤井松一、藤原彰、『コンサイス日本人名辞典 第5版』、株式会社三省堂、2009年 36頁。
- ^ ロバート・キャンベル「足代弘訓」『朝日日本歴史人物事典』(朝日新聞社、1994年) ISBN 978-4-02-340052-8
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